薔薇、綻ぶ部屋



 私には兄がいた。
 母が兄を身籠ったのは、まだ学生の時だと聞いた。その頃、母はすでに父との交際があり、まだ具体的ではなかったが、結婚の話も双方の家族の間でかわされていた。
 母はその頃、まだ女子では少数だったが、理系の4年制の大学に通い、更に大学院にも進んだと言う。今はどこからどう見ても平凡な主婦なのだが、当時はご近所では才媛として評判だったらしい。母は変わってしまった自分が悔しいのか、また、その頃の自分が誇らしいのか、よく古い写真を見せてくれた。ショートカットのほっそりとした身体を、白衣に包んだ母が写っていた。まだあどけなさ残る母の姿に、私はいくぶん狼狽してしまった。今の自分よりも若く、そして美しい母。私はどちらかと言うと父親似で、少女時代は冗談めかしてよく父親を責めたものだ。
 自分の若い頃の話をよくしてくれる割には、何を学んでいたのかと問うと、途端に口が重くなった。それを疑問に思いながらも、頭の回転が鈍いのも父から譲り受けてしまった私は、それ以上追求する気にもならなかった。

 込み入った話を聞きたいと思えるような精神状態でもなかった。
 私は、もちろん家族には内緒だが道ならぬ恋をしていた。既婚の男性に思いを寄せていた。どうしようもなかった。たいして器量がよいわけでもなく、とりたてて内面的は魅力があるとはどうしても思えない私を、可愛がってくれた。
 彼は、私を愛してくれていると言うが、私はどうしても信じきれずにいた。彼に愛される理由を自分の中に見出せなかった。だから、奥さんから奪いたい等とは思わなかった。そばにいて、優しい言葉をかけてもらえるだけで、それでよかった。私自身も、未来のない恋愛に身を任せていられる程若くはないのだが、今の思いを振り切る事はどうしても出来ずにいた。
 そんな、不安定な幸せでもいいから、この思いに身を委ねて生きていこうと心を決めた矢先、そんなささやかな私の望みを打ち砕く出来事があった。私が彼の子を身籠ってしまったのである。
 彼に告げずに堕胎しようと思った。…本当は、産みたかった、一人で育てていきたかった。愛する人との間にできた子なのだ。しかし、堕胎を決心したのは何より、彼との今の関係を壊したくなかったからだ。奥さんとの間にはまだ子供はいない、産めば彼を奪う武器になるかもしれない。でも、それでも奥さんの方を選ばれてしまったら、私はどれだけ絶望するか、想像もつかなかった。
 そんなふうに考えを巡らせていると、私のお腹に宿ったものが、憎くて仕方なかった。私達の関係と壊すもののように思えた。彼と自分の間にできた命にこんな感情を抱くなんて、私の精神はきっとぐしゃぐしゃに歪んでしまったのだと思った。

 私の様子がおかしい事を、母はずいぶん前から察していたらしく、部屋でふさぎ込んでいる私の手を握って語ってくれた。学生の頃、母が何を学んでいたのかを。
 最初、母はこんな話をしてくれた。それは白衣の少女達が夢見たささやかなお伽話だった。
 薔薇と苺は同じ、薔薇科の植物である。母と数人の女子学生達は、薔薇の花を咲かせる苺を作ろうとしていた。その辺り、理論上可能なのかどうか私にはわからなかったが、少しだけ私の口元を綻ばせる、可愛らしい研究だ。
 成功らしい結果には恵まれず、その研究は打ち切られたらしいが、母はうれしそうにその頃の事を話してくれた。その話で母が遺伝子関連の事を学んでいた事が私にもわかった。
 そしてその頃、父以外の人の子を、妻子のある男性の子を懐妊していた事も話してくれた。私はその話にどきりとしてしまい、俯いて聞いていた顔をあげ、母の顔を見た。母は優しいけれど、いつもとは違う妖しい笑みを浮かべ、ありきたりな語り口での生命の貴さを説いた。
 母は堕胎しなかった、しかし、産んでもいなかった。母は、私に堕胎する必要はないと言う。困惑する私の髪を優しく撫でてくれた。

 言われるまま、父には内緒で母の母校を訪れた。
 厳重に施錠された研究室につれられ、私は自分の目に映る光景がなんであるのか中々理解できなかった。
 母は愛おしそうに、培養液で満たされた直径30cmくらい円筒状の容器を撫でた。中の胎児はまだ未完成ではあるがほぼ人の形をしていて、僅かではあるが小さな指が蠢き、ぱくぱくと歯のない口元が開いたり閉じたりしていた。小さな足の間には頼り無気だがハッキリと、突起が確認できた。
 

 おわり

1999/11