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『訃報』

 香具山音夜さん八十一歳(かぐやまおとや=人形作家)八月十九日、肝不全のため死去。通夜は十九日午後六時より、葬儀・告別式は二十日午前十時四十五分より、京都市中京区●●寺にて行なわれる。喪主は弟、冬馬さん。

 大正十年京都府生まれ。昭和五十年処女作等身大の人形「樹の女」を発表。五十三年、個展タイトル「鏡と死の国」とし、等身大の男性像女性像十ニ体を陳列。他、代表作に「人工の蝶」「卵と少女」「世界の終わり」などがある。

   ※※※

 もういない人間について考えると言うのは、意外な事に何の感慨も生まなかった。それは、冬馬が老いて感性が擦り切れてしまったせいかもしれない。
 動く度にぎしぎしする関節。乾いた肌。歯はもう殆ど人工の物に頼っている。痩せて骨が目立つようになった。自分の中には骨格標本と同じ物があると言う事を自覚出来るようになった。若い頃には思いもしなかった事だ。
 自分の肉体が、日に日に命を伴わない物質に変容していく。自分の顔が以前どうなっていたかもわからない。箪笥に立て掛けられた写真の中の若い男が自分であると言う自信が持てなかった。
 兄の作る人形に似ていると言われたような気もする。美しかった母の面影があると言われた事もあった。
 しかし、もうそんな事には何の価値もなかった。頬の肉が削げ、眼窩は落ち窪み、今にも視神系が切れて眼球が零れてしまいそうだった。
 冬馬は洋服の上から青磁色に黒の絣の久米島紬を羽織っていた。音夜が愛用していた物だ。音夜は、年を取ってからも平気で女性物のお召を着て出かけたりするような人物だった。冬馬にはとてもそんな真似は出来なかったが、それでもこうしていれば、何か兄の記憶が降り落ちてくるかもしれない。
 しかし、期待していたような思い出は何一つ冬馬の元を訪れてくれはしなかった。
 記憶は局部的に鮮やかになり、輪郭はどんどん溶解していった。
 音夜がこの世を去ってもう十年以上にもなる。黄ばんだ新聞を手に、冬馬は兄の姿を思い出そうとした。当時この新聞に載った訃報を見て、随分とたくさんの人間が弔問に訪れた。
 兄と暮した家は彼の死の直前に買い戻した。
 その町家が並ぶ通りは最近、随分騒がしくなった。古く草臥れた町家は、若者が集まるカフェーになったり、洋服屋になったり、流行りの西洋骨董が並ぶ店になった。
 結構な事だ。
 ただ、騒々しさは老いた身に堪えた。
 兄が遺した人形達も、可能な限り買い戻した。手放したくないと語る持ち主が多かった。それは、有り難い事だ。しかし、冬馬は執拗に食い下がり、殆どの人形をこの家に戻した。
 音夜が生み出した作品は深く愛されていた。恐らく、彼自身以上に。冬馬には、何故兄以上に兄の生み出した人形の方が愛されたのかわからなかった。
 音夜が作った人形は、冬馬にとっては不気味な物でしかなかった。
 人とほぼ同じ背丈の人形。首を合わせて十四ケ所が駆動する球体関節。医療用の義眼。人毛の頭髪は、気温の変化で少しずつ伸びる。
 少女の足を開くと、二対の肉の間から僅かに陰核が覗いている。性行の不可能なその陰りを覗いても、少女人形は誇らしげな顔を崩さない。
 男の人形も同様だ。幾らその精巧なペニスを撫で摩った所で、変容が起きる筈もなかった。いつも同じ角度で垂れ、陰嚢は足の関節の動きを滑らかにする為に不自然な形に削られていた。
 兄が使っていた八畳間に人形を並べる。八畳間に等身大の人形を十体も置くと、さすがに窮屈そうだった。
 こんな事をして何になるのか。
 冬馬自身も、そう長くこの世に留まるわけではないのに。
 自嘲しながら、雪見窓から外を見る。
 小さな頃は兄と二人でこの小さな窓から四季を確認した。ちらちらと降る雪は小さな小さな動物のようだった。あれを集めて固めると雪兔になる、と音夜は言った。
 幼かった冬馬は、その言葉を信じた。兔が欲しいと泣いた。音夜は笑っていた。
 十も離れていた兄は、冬馬にとって誰より賞賛に値する人物だった。修学しなかった冬馬は、知識の殆どを兄から仕入れていた。
 音夜は、冬馬の全てだった。
 なのに、思い出せるのは兄の面影ではなかった。
 幼かった頃に見た兄の面影はぼんやりとして、何か光の塊のようにしか思い出せない。
 兄は、どんな顔をしていただろう。
 何度思い起こそうとしても、記憶にあるのは葬式の日に拾った骨の事だけだ。飽食が過ぎた者は肉体が綺麗に焼けず、脂肪層が遺ってしまうと言う話を聞いた事があったが、音夜の肉体は跡形もなかった。名遺りの骨さえ脆く崩れていて、あまり原形を留めていなかった。
 あの上にあった筈の、兄の容貌を構成していた肉は焼けてどこかに行ってしまった。老いも全て捨てて、ただ白いカルシウムの塊になった。一緒に、冬馬の記憶も焼け爛れて溶けた。
 その後、兄の希望にあった通り風葬を行なった。骨を砕いて粉にし、それを海に撒いた。小さなクルーザーを借り、骨壷に詰めた粉を少しずつ掴み、船尾に向って手放した。
 どうせなら、身体をぶつ切りにして、肉ごと撒いてやれば魚の餌にもなったのに。
 音夜の骨は、夏の海に降る粉雪のようだった。
 音夜は、自分の肉体を完全に消し去る事を願った。冬馬には、何故彼がそんな事を願うのかわからなかった。
 彼は、多くの物をこの世に遺したのに。
 人形達は、朽ちる事なく留まり続ける。
 音夜は、その形が予めあったように、何の躊躇もなく木塑を錬り、顔や身体の造形を掘った。胡粉を塗り込める頃には、その人形には息が詰まるような気配が纏わり付いていた。
 四十を過ぎてから始めた音夜の人形作りは、冬馬の目には奇異に映った。指を傷付けてはその血を少女の身体に塗り込めた。全裸になって少年の人形と同衾している事もあった。まだ完成されていない人形の手で、ペニスを扱いている事もあった。その姿を弟である冬馬に見られても、全く頓着しなかった。達した後、ティッシュで自分の下腹部と人形の手を拭いながら、食事の催促をした。
 当時、標準よりふくよかだった音夜は、人形を一体完成させる度に痩せた。まるで、自分の身体を削って与えて行くように。
 音夜は何を遺したかったと言うのだろう。
 人形達の表情は今も変わらない。こちらを強く見つめている様で、何も見ていない義眼。指先や足先が欠損している物もあった。頬の胡粉が剥げている物もあった。
 人形が老いる事がないなんて嘘だ。
 彼らも人間と同じ時間を過ごし、傷み、壊れる。
 時間は無情だった。

 冬馬の膝元に空虚な桐の箱がある。その中には、一房の毛髪が入っていた。それは今、冬馬の手の中にある。
 真っ白な、髪。老いて白髪になったのではない。もっと透明で、艶やかな白。
 兄の思い出は、何もかも白い物に覆い尽くされる。
 白い人形の肌。白い骨。
 白い雪。白い兔。
 雪を集めると白い兔になる。
 どうしてそんな事を信じたのか。馬鹿馬鹿しい。
 冬馬の口元から失笑が漏れる。
 冷えてきた空気に身震いしながら雪見窓を見ると、小さな小さな白い生き物が舞い降りていた。  


2005年…多分

※この掌編の元ネタはお友達の書いた[final distance]という小説です。
ここでは頭文字のみとってfd。(フロッピーディスクではありません)
でも残念な事にもう続きは書かないとおっしゃっているので、
ご本人の了解を得て、ネタをもらって、勝手に別の設定を加えて書いたものです。
彼女が書いたこの未完のお話を、私はとても気に入っているのですが、
元のお話がどういう風に展開していったのか、わかりません。ご本人も忘れたそうです。
私が書くともう、原型を留めない別のお話になってしまうとは思うのですが、
もう少し時間をおいて、完成させる事ができれば…と思ってます。