硝子の柩、人工の薔薇



身を切られるような辛い思い出も、凍りつきそうな絶望も、すべて濾過され、目の前に流れてくるのは、清らかなせせらぎに似た、透明な雫。
ぽつりぽつりと滲んでは、過重のため、耐え切れずに滴り落ちてくる。
これは、あの子の涙。

グレゴールが庭の薔薇を摘み、多面のカットが入り宝石のように方々に光を弾く花瓶に活ける。季節の花を摘んでくるのは、彼の習慣だった。少しでも、外の世界の息吹きを届けようという心遣いなのだろう。
淡い、少女の頬のような色の薔薇。自らの花弁の重さに頭を垂れる。
グレゴールが話しかけてくる。穏やかな、柔らかい声。春の宵のような優しい黒い瞳、艶やかな黒い髪。
確かに、ほんの少しの距離を隔てて、その青年は存在している。
肉眼で見る事が出来ないその姿は、時にとても鮮明に映り、しかしすぐに靄がかかり、薄く遠ざかってしまう。
硝子の向こうの世界。分断された現実。一度粉々に砕け、再構築された映像。
地下室はいつも一定の温度に保たれている。プログラムされた光源は、昼と夜を地下室の主に告げる。
巨大な卵のような容器の中、身体のいたるところに電極とチューブを差し込まれ、それは生命を維持する第二の脳に繋がっている。もう動かない身体の各部に酸素と栄養を供給し、外部の情報を視覚、聴覚に再現して脳に送る。
見えるもの、聞こえるものはすべて、この機械のフィルターを通さなくては得る事が出来ない。
グレゴールが何か話しかけている。こちらを…正確には硝子の向う側に向いたカメラに向かい、唇を動かしている。
その姿は見えるけれど、どこか平坦で、現実味に欠ける。
声は言語として脳に届くけれど、その意味を飲み込むのに時間がかかった。
「マスター? お加減がよろしくないのでしょうか?」
不安そうな声。応えてやらなければと思い、頭の中に言葉を描く。それは、電子信号となり、音声に変換され、彼の元に届く。
「いや…大丈夫だ」
嗄れた年寄りのような音。それでも、返答があった事にグレゴールは安堵の溜め息をつき、微笑む。
いつだっただろう。この顔をもっと傍で見たのは。もう、ずいぶん遠い昔のような気がする。でも、ほんの数年前の事のはずだ。
こんな風に客観的に見ると、青年の姿は凛として涼やかで、美しかった。若木のようなしなやかな肢体、緩い弧を描く眉、夜の湖が結晶した双眸。その目元の与える冷ややかな印象を和らげる、優しい言葉だけを紡ぐ唇。
祖父が思い描いていた、貴族の子息らしい品のいい風貌、立ち振る舞い、話し方。身につけている仕立てのいい焦茶のスーツも、よく似合っている。
生きて、動いているグレゴールの姿。
かつて、鏡の中に見た面影。

それは、自らが望んだ事だった。
失ってしまった、身体、容貌、声、視力、自ら行動し、生きる世界。
それを取り戻す事が出来ないのなら、人工の生命に託して、元の世界に戻りたいと思った。
それが、グレゴールだ。
かつてその名で呼ばれていた男の記憶、容貌を持ち、彼は彼自身である事は許されず、そうある事を望む事すら知らず、この動かない身体の元のグレゴールの身代わりに、硝子の向う側で生きる事を強いられている。
それがどんなに身勝手で、残酷な事なのか知りつつ、一度芽生えた、戻りたいという欲望は抑える事が出来なかった。
それは、自分自身ではないかもしれない。それでも、置いて来てしまった世界に未練があった。
どんな手を使ってでも、戻りたかった。
幼い頃から渇望し、やっと手に入れた暖かな生活と、心から信頼し、愛したただ一人の人。
何も持たず、分け合えるのはただ、お互いの体温だけで、でも、それが何よりもかけがえのないものだと知った。
代価など必要なく、すべて捧げたいと思った。無償の愛を教えてくれた人。
エクトに、もう一度……もう一度、会いたかった。






※多分2002年か、2003年春くらい? 雑誌掲載の為の改稿中、不安に怯えつつ書いたような気が。