| lost child 
 
  
グレゴールがエクトに出会ったのは、まだ十七歳の頃だった。
 自分が無力なのは知っているつもりだったが、一人で生きていくというのはグレゴールが想像していたよりも遥かにたいへんな事だった。
 疲れて駅の待ち合い室で蹲っていると、着替えと金の入った鞄をひったくられ、とりあえず飢えを凌ごうと、道ばたで売っているホットドッグを買うために財布を出すと、後ろにいた男にすられた。
 あまりに呆気なく無一文になり、家を出て、一人でなんとかやっていけると思っていた自分の甘さが滑稽で情けなくて、グレゴールは肩を落としながら街を彷徨う。
 石畳の坂道。いつの時代から刻まれてきたのかわからない轍。道の端と壁は何色とも表現出来ない色に変色している。酔っ払いの吐瀉物や小便が染み込み、雨に洗われてもその饐えたにおいは消えなかった。
 グレゴールは、街が荒廃している事は覚悟していたつもりだった。誰にも頼る事は出来ない事も。自分がついさっきまで家族の庇護下にいた、世間知らずの十七歳だと言う事もわかっている。
 だから用心しているつもりだったのだ。
 それでも、やはりグレゴールの認識はどうしようもなく甘かった。仕方のない事だろう。彼の通っていたパブリックスクールには同じような恵まれた環境の子供達しかいなかった。 グレゴールは、屋敷では従者に囲まれ、祖父に溺愛されて育った。
 グレゴールは彼なりに、この街にいて不自然ではないよう気を配ったのだ。
 絹のシャツも卵色のカシミヤのコートも、ブルーグレーのフランネルで仕立ててもらったスーツも、全部家に置いてきた。二度と、袖を通さないつもりで。
 だが慣れない服装では、一目で彼がぬくぬくと裕福な暮らしをしていた言う事がばれてしまうのだろう。
 黒のナイロンジャケットもジーンズも全然似合わない。黒い髪は頭の形に添うように切り揃えられていたし、黒い瞳は眇めた事などなさそうな素直な光を湛えていた。
 どこから見ても鷹揚なお坊っちゃんだ。
 街ではどこからか家出して来ては住み着く若者は珍しくなかったが、グレゴールは目立った。白い肌も整った容貌もすれていない子供っぽい喋り方も。
 「どうしよう……」
 誰にともなく呟く。
 家を出てきたものの、どうやって生計を立てるかなんて具体的には考えていなかった。
 どこか…どんな所でもいいから住む部屋を見つけて、何でもいいから自分に出来る仕事を見つけて…。
 この街に長く留まるつもりはなかった。もっと、もっと遠いどこかに行こうと思っていた。だが、所持金がない以上、しばらくはここに留まるしかない。せめて、列車の運賃を捻出しなくては、そのための仕事を探さなくてはいけなかった。
 しかし、街を少し歩いてみて、仕事なんてそう簡単に見つかる状況でない事はグレゴールにもわかった。街のあちらこちらで失業者が項垂れている姿を見た。
 ぐるぐると歩き回ったけれど、ドラッグストアでも本屋でも、アルバイトの口はないと断られた。中にはグレゴールの事を頭からつま先まで見つめ、にやにやしながら「いい仕事を紹介してやる」と言う男もいた。何の事かはわからなかったけど、さすがに視線の不躾さに嫌な感じがして、その言葉に乗ったりはしなかった。
 グレゴールは溜め息をつく。
 せめて預金通帳が無事なら、しばらく食い繋ぐ事が出来たのに。
 家に帰る事が頭を過った。
 何不自由なかった生活。毎朝糊の効いたシャツに袖を通し、ダイニングでは朝夕、ちゃんと食事が用意されている。
 祖父のオーガスタス、父ファンと母ヘレナとグレゴールが席につく食卓。銀のスプーンもフォークも、陶磁器もいつも曇りなく磨かれている。
 しかし、食卓はいつも静かだった。父も母も俯いたままスープを口に運んだ。パンをむしる音さえ聞こえてしまう静かな夕餉。
 時折口を開くのは祖父だけだった。訊ねられるまま、学校の事、庭の花の事、最近読んだ本の事を話した。他愛のない話なのに、グレゴールは慎重に言葉を選ぶ。グレゴールが声を発する度に、両親の間に緊張が走る事を知っているからだ。
 恵まれた生活だと思っていた。特別な家だと言う事も知っていた。
 でも、息が詰まる。
 オーガスタスは、グレゴールが幼い頃から、このランフォード家は貴族の血筋だと言う事を言い聞かせた。
 生まれた時から、否応なく背負わなければいけなかった血統、歴史、期待。
 重い空気が身体に纏わりつく感覚が蘇る。振り払おうと、頭を強く振る。
 家族の面影と、息苦しい晩餐の様子は脳裏から消え、しかし、代わりに目の前に映るのは荒んだ街の風景だった。
 どこにも身の置き場がないような気がして、グレゴールは溜め息をつく。
 日暮れが近づく。腐った果物みたいな太陽が、色褪せた建物の隙間に沈んでいく。
 歩き疲れ、目についた公園に入り、大きな欅の木の根元に腰を下ろす。木肌には赤いペンキの落書きがある。
 頭上で、さわさわと細い葉の擦れる音がする。風が髪を攫っていく感覚は少し心地よかった。
 疲れと眠気で瞼が下がろうとするけれど、飢えがそれを許してくれない。腹が、くるくると情けない鳴き声を上げる。
 小銭でも残ってないかと、上着のポケットを残らず漁ったが、何も出て来るはずがなかった。
 公園で野宿なんか、危ないだろうか? それより、夜は冷え込むから風を凌げる場所に移動しなければ。しかし、駅の待ち合い室には行きたくなかった。もう取られる物は何もないけれど、そこで遇った災難のため、なんとなく足を向ける事を躊躇った。
 かと言って、どこに行けばいいのだ。ホテルのロビーはもちろん、図書館も美術館も学校も、見つかるとすぐに追い出された。地下街は怖くて近づけない。人様の家の軒下にでも眠ればいいのか。
 思い倦ねていると、グレゴールは自分を見つめている視線に気づく。
 顔を向けると、公園の入り口に若い男が立っていた。
 歳は同じくらいだろうか。背の高い、痩せた男だった。茶色い髪はだらしなく伸び、肩にかかっている。着古して、所々擦り切れたキャンバス地のジャケット、色褪せたジーンズ、頒布のリュックを右肩にかけ、ぼんやりと立っている。
 鼻筋の通った、駆け出しの俳優のような顔立ちなのに、瞳は暗く澱んでいて、それを見てなんとなく、彼も帰る場所がないのだと悟る。
 グレゴールは思わず彼に微笑みかける。呆然と立っている様に、親近感を覚えたのだ。
 男はグレゴールの笑顔を意外そうに見返す。
 「財布、すられちゃった」
 彼に訴えても仕方ないのに、思わず口に出してしまう。
 「…荷物は?」
 「荷物は二日前にやられた」
 言ってみるとなんだかおかしくて、グレゴールは声を出して笑う。
 こんなに世間知らずで鈍くて怖がりの癖に、家出して自活出来るつもりでいたのだ。
 グレゴールが笑い出した事が意外だったのか、男は目を丸くし、困ったように頭を掻く。
 「お前、この街の人間じゃないだろ」
 「うん。やっぱ、わかる?」
 「ああ。まぁな。ちょっと待ってろ」
 男は踵を返し、公園を出て行く。長い足がつかつかと早足で去り、しばらくすると同じ調子で戻って来た。
 「ほら」
 男が差し出したのは、ホットドッグと、縞模様の紙コップに入ったオレンジジュースだった。
 「……え?」
 「やる。食えよ。腹減ってるんだろ」
 「でも…」
 「いらねぇの?」
 男のその言葉が途切れた後、グレゴールの腹が鳴る。やけに大きく響いて、二人は顔を見合わし、吹き出した。
 「いるいる。もらうよ」
 グレゴールは男に手を伸ばし、ホットドッグとジュースの紙コップを受け取る。
 男はグレゴールの隣に腰を下ろし、食べ始めた。咀嚼する頬が動くのをぼんやり眺めていると、顔を逸らされてしまった。
 「早く食えよ」
 そう言われて、男の真似をして大きく口を開けてホットドッグにかぶりつく。
 「……辛っ」
 ジグザグにかけられたマスタードが、口の中でひりひりする。
 「なんだよ、ガキだな」
 慣れない食べ物に戸惑っているグレゴールを、呆れたように見、指先でマスタードをこそげ取り、男は自分の分に擦りつける。
 「ほら、これで食えるだろ?」
 「ああ…うん」
 グレゴールがホットドッグにかぶりついたのを見ると、男はまたそっぽを向き、マスタードの黄色に染まったホットドッグの続きを食べた。
 いつもなら、家で食卓についている時刻だった。森の木と小鳥の柄の織り模様のテーブルクロス、その中央には庭で端整された季節の花。燭台に炎が灯り、皿の上には彩りまで計算された料理が盛られ、家族揃ってお祈りのために手を組み目を閉じる。
 でも今は、これまで口にしたどんなごちそうよりも、紙で包まれた、パンにソーセージとピクルスを挟んだだけの食べ物が嬉しかった。
 地べたに座り、夕空を眺めながらの食事は、家を出て初めて、グレゴールを愉快な気分にさせてくれた。
 グレゴールは、空を見上げている男の袖口をひっぱり、こちらを向かせる。
 「ありがとう。おいしかった」
 言葉と共に笑みが零れる。男は黙って頷いただけだった。
 もっと、ちゃんと感謝の気持ちを伝える方法はないだろうか。荷物を盗まれ財布をすられ、働く場所も見つけられずにいた所に、見知らぬ男がくれた優しさは本当に嬉しくて、グレゴールの心は浮き立つ。
 同時に、一人でいた心細さが急に襲ってくる。怖くて、見ない振りをしていた不安が、顔を出す。
 彼にありがとうを言って、そのまま別れてしまいたくなかった。与えられた安堵は手放し難かった。
 「あの……なんて、呼べばいい?」
 「あ?」
 「名前…」
 おずおずと訪ねる。
 「エクト。そっちは?」
 「グレゴール…」
 フルネームを名乗りそうになって、口籠る。
 「グレゴール?」
 「う、うん…何? 変?」
 エクトは薄笑いを浮かべている。何か、おかしな事を言ったのかと不安になる。
 「いや、悪い。お前、自分の名前の語源、知ってる?」
 グレゴールは首を横に振る。
 「思慮深き者、だよ。……昔、通わされた教会の司祭が同じ名前で、そう自己紹介してやがったのを覚えてる」
 ふーん、と感心したように頷き、やがて笑われた意味を悟る。
 「悪かったな。全然思慮深くなんかなくて!」
 拗ねたように言うと、エクトは吹き出して、グレゴールの肩を叩いた。
 「荷物取られてすぐに財布すられて、こんなとこでぼんやりしてて…」
 エクトの手が伸び、グレゴールの口元に触れる。
 「こんなとこにケチャップつけて」
 「えっ? うわ、いてっ」
 乱暴に口を拭われ、グレゴールが抗議の為に声を上げる。それを見て、エクトがおかしそうに笑う。
 「お前、いくつだ?」
 「十七だよ」
 「ひとつ下か。それにしちゃガキくせーな」
 「なんだよ!」
 反論しようとすると、エクトは立ち上がって、尻についた土埃を払う。
 「エクト…?」
 グレゴールに近づいて来た時と同じような足取りで、エクトが去って行く。
 話している間にすっかり陽は落ちてしまい、街灯の電球が切れたままの公園は暗い。分厚い雲は月明かりを遮っている。数歩離れるともうエクトの姿が暗がりに消えてしまう。
 グレゴールは追いかけようとして凭れていた木に手をつき立ち上がろうとしたが、すぐにまた腰を下ろしてしまう。
 追かけてもいいんだろうか。話しかけてきたのは、食べ物をくれたのはほんの気紛れで、彼にとってはそれほど意味のない事かも知れない。追いかけたりしたら迷惑かも知れない。
 たった今まですぐそばにあったエクトの体温が消えると、急に肌を刺すような寒さを感じ、薄い上着を掻き合わせる。
 寂しくて心細くて、でも、追いかけて怪訝な顔をされたらと思うと、怖くて名前を呼ぶ事すら出来ない。
 たった今出会ったばかりのエクトに、縋ろうとしている自分が情けなくて、自分が思っている以上にずっと子供で、臆病で…ほんの少し先に踏み出す事さえ出来ない。
 待ってと一言告げる、それだけの事が出来ない。
 目の前で僅かな光の中小さくなっていくエクトの背中が、本当にそこにあるのか、もうどこか遠くに去ってしまって、見えているのはただの残像なのか、わからなくなる。
 確かめるのが怖くて目を伏せる。
 グレゴールは溜め息をつく。
 「何やってんだろ…」
 「ほんとにな。何やってんだ?」
 「え?」
 顔を上げると、目の前にエクトが立っていた。
 「行くぞ」
 「……って、どこに?」
 「さあ? これから探す。とりあえず、今夜眠れる場所」
 座り込んでいるグレゴールに、エクトが手を差し伸べる。
 風が吹き、グレゴールの髪を攫い、雲が切れる。湿り気を帯びた月がぼんやりとした光を届ける。
 急に視界が開けたように、目の前のエクトの姿が鮮明に映る。
 少し怒ったような、照れたような顔。彼自身もどう表情を作っていいのかわからないのだろう。
 目の前にあるエクトの手を取ると、力強く引き上げられる。
 鼓動が躍る。
 視線を合わせ、手を握りあったまま、時間が止まってしまう。
 実際にはほんの一瞬だったのだろう。
 でもグレゴールは、その一瞬をとても長く感じた。いつまでも記憶に刻みたい数秒だった。
 どこに行くのか、どこへ辿り着けるのかわからない。
 でも、この手を握っていれば、何も怖い事はないような気がした。
 
 
 
 
 
 ※2004年かな?多分。新書用の書き下ろしにびくびくしながらその合間に。
 
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