初恋のためのエチュード



こんなに気持ちと身体がバラバラになってしまうなんて、思ってもみなかった。
心の中で響く音と、実際に耳に聞こえる音の落差に、酷く動揺してしまう。
曽我倭はピアノの前できつく唇を噛み、眉を寄せた。そうすると、曽我のきつい眼差しはよけいに鋭くなる。平均を上回る長身と、どこか達観した表情が、彼を大人びて見せていた。
それは、彼自身が早く大人になりたいと願ったせいかも知れないが、そう願いながらも焦りに自分を見失いそうになるところは、他の十七歳の少年となんら変わりはない。
窓から射す西日が焦燥を煽るように色づく。向かいの校舎の窓硝子に陽光が反射し、ピアノ室を照らす。眩しくて思わず鍵盤から手を放し、目元に翳した。校庭では運動部のかけ声が響く。空気の層に遮られ、声は丸みを帯びて軽やかに弾けては消える。
「疲れたんじゃない? 今日はこれくらいにしましょうか」
「いえ、もう少し……」 気遣わしげに声をかけてきたのは枝村祥子。非常勤の音楽講師だ。十代の頃はピアニストを目指していたらしいが、腕の怪我で断念し、今は非常勤でいくつかの学校で音楽を教えている。
曽我が一旦は諦めたピアノに、もう一度触れさせてくれたのはこの人だ。曽我は小学生のときにピアノを習っていたが、両親の離婚とともに辞めた。とてもピアノを続けられるような経済状況ではなかった。高校へ進学させてもらえただけでも、感謝しなくてはならない。
曽我が進学したのは、県内でも唯一、音楽科のある公立高校だった。この学校を選んだのも、未練の表れだったのかも知れない。だけど結局、曽我が進んだのは普通科だった。卒業したら就職するつもりでいるのだから、ピアノを専攻しても意味がない。
なのに、音楽科の生徒を羨望の眼差しで見つめてしまう。音楽教室の前を通りかかると、知らず知らず足を止めてしまう。微かに漏れ聴こえてくるピアノの音に、胸が張り裂けそうになった。
やっぱり、もう一度弾きたい。鍵盤に触れたい。この手で、音楽を紡ぎたい……。
無人のピアノ室の前で立ち尽くしているところを枝村に見咎められ、こうして放課後、学校のピアノを使わせてもらうようになった。
枝村は教師らしからぬ奔放な性格で、いつも朗らかで元気な人だ。だけど、胸の中にはたくさんの傷を抱えているのだろう。だから、曽我に声を欠けたのかも知れない。自分が挫折した過去を曽我に重ねて。
「根を詰めたって疲れてしまうだけよ。さ、未練がましい顔しないの」
「もう少し……もう少しだけ、弾かせて下さい」
「焦らないで。ブランクがあるんだもの。思い通りに弾けないのは仕方ないわ。でも、基礎練習を続けていればすぐに勘を取り戻せるから」
枝村に宥められ、曽我は唇を噛む。自分の不甲斐なさが情けなくて、もどかしくて、苛立ちばかりが募る。
「でも、こんなんじゃとてもコンクールなんて……」
枝村は、曽我に日本音楽コンクールへの出場を勧めた。国内で一、二を争う大きなコンクールだ。そんな場に自分が立つなんて想像できなかった。
小学生の頃もジュニアコンクール出場を打診されたことはあったが、結局諦めた。曽我の自宅にはピアノがない。家で練習できなければ、どうしても他の子たちに遅れを取ってしまう。それに、月謝だけでも無理をさせていたのに、参加費や衣装代もかかるコンクールに出るなんて考えられなかった。だから、曽我はいつも、コンクールや発表会は見学しているだけだった。
だから最初、枝村の誘いが非現実的に思えて仕方がなくて、曽我は首を縦に振らなかった。自信もなかったし、十七歳でコンクール初出場というのも、気後れした。他の出場者のほとんどは、何らかのコンクール経験者だろう。
それでも、出場を決意したのには理由がある。
会いたい人が……いるから。
「弱気にならないのよ、曽我君。大丈夫! あなたの指先は必ず思い出すわ。私は、見込みがあるから出場してみてって言ったのよ。だから、私を信じて」
枝村が自分のどこに価値を見出してくれたのかわからない。だけど、嬉しかった。
枝村は奨学金を受けて音大に進学することも勧めてくれた。だが、それはさすがに無理だ。いくら奨学金を受けたとしても、学費以外にも金はかかる。下にはまだ弟がいるのだから、自分のやりたいことばかり主張するわけにはいかなかった。
高校を卒業すれば、もうピアノに触れることはなくなるだろう。それなら、最後の思い出に、コンクールに挑戦してみてもいいと思った。
久しぶりに触れてみて、自分がどれほど飢えていたのか悟った。
ピアノが好きだった。陽だまりのような優しい音も。嵐のような激しい音も。すべてが、指先から生まれていく。
この音の先のどこかで……繋がっているような気がするのだ。あの子と。
「よかったら、土日にうちで練習する? レッスン代なんか気にしなくていいのよ。コンクール出場を勧めたのは私なんだし、責任を持って指導するから」
「ありがとうございます。でも、土日はバイトがあるから……」
少しでも家計を助けようと、土日はアルバイトをしていた。高校生の稼ぎなどたいした足しにはならないが、それでもいくらかは母を助けられているのだと思うと、自分の気持ちも楽になる。
「そう。そうだったわね。ねぇ、曽我君、困ったことがあったらなんでも言って。相談に乗るわ」
「いえ、これ以上迷惑をかけるわけには……」
「何言ってるのよ! 迷惑なわけないじゃない。私は、若い男の子と過ごせて楽しいわよ?」
にかっと笑い、枝村は肩をばしばしと叩いてくる。若い男の子と過ごせて楽しい……などという甘い雰囲気では、まったくない。この気安い態度に、少し心が軽くなった。叩かれた拍子に、喉につかえていた何かが取れたのかも知れない。
曽我は顔を上げ、真っ直ぐに枝村を見た。
「先生」
真剣な曽我の表情に、枝村は話を促すように首を傾げる。普段はにぎやかに喋る人なのに、こうして何かを打ち明けようとするときには、全てを受け入れてくれるような、慈愛に満ちた目をして見つめてくる。
その瞳に、曽我は久し振りに誰かに甘えたいような気持ちになった。
訊いても困らせてしまうだけのような気もする。だけど、誰かに話して楽になりたい。そう思ってしまった。
曽我は一呼吸置いて、言葉を発した。声は少しだけ、震えていた。
「話をしたこともない子を好きになるって、変ですか?」
言葉とともに、その人のことを思い浮かべる。
遠い、遠い存在。手が届かないことはわかっている。だけど、幼い恋心は止められなかった。行き場のない思いは胸を焼く。
初めてあの子を見たのは、小学生のときだった。ジュニアコンクールに出場する姿を、曽我は客席から見つめていた。ピンと背筋を伸ばしてピアノを弾いていた姿は、今も瞼に焼きついている。真剣な、どこか遠くを見据えるようなひた向きな眼差しに釘付けになった。演奏には、ただただ圧倒された。小さな身体で自在に音を操る姿を見ていると、胸が熱くなった。
もっと、あの子の姿を見ていたい。小さな指先が奏でる音を聴きたい。その一心で、コンクールや発表会があれば足を運んだ。
この気持ちが恋だと自覚したとき、曽我は激しく動揺した。何度も、自分の感情に別の名前を当てはめてみた。だけど、恋以外に答えはなかった。
塩谷一史。曽我が恋をしたのは、同じ歳の少年だった。それだけではない。祖父は著名なピアニスト、父親も指揮者という音楽一家に生まれたサラブレッドだ。彼自身も、当然のように次々とジュニアコンクールのタイトルを獲得していた。
自宅にピアノさえない自分とは、あまりに違う、
恋人とは言わないまでも、せめて友達になれたら、そう思った。だけど、自分の境遇を顧みると、とても近づく勇気は湧かなかった。
「話をしたこともないって……芸能人か何か?」
「いえ、違います」
だけど、手が届かないという点では似たようなものかも知れない。
「じゃあ、学校の子? 話をしたことがないなら、他校の子かな?」
「ええ、まぁ……」
「曽我君って、そんなに奥手だったの」
枝村は意外そうに目を丸くし、それから優しく微笑んだ。
「思い切って声をかければいいのに。曽我君、素敵よ? 私が同じ歳くらいだったら、好きになっちゃうかも」
ウインクをする枝村に苦笑して見せると、軽く頭を小突かれた。
「踏み出さないと、何も始まらないわよ」
ピアノは、触れなければ音を奏でることはできない。恋も、手を伸ばす勇気がなければ、泡のように儚く消えてしまう。
「でも、今はコンクールのことを一番に考えましょう。そうだ、コンクールの後に告白するっていうのは、どう?」
「それは……」
「いい成績が取れれば自信もつくわよ。ねっ!」
枝村はもう一度曽我の肩を叩いた。
まだピアノからは慣れ難く思っていると、枝村は『鍵をかけておいてね』と言って教室を出て行った。
残された曽我は未練がましく、そっと鍵盤に触れる。
軽やかな音色が、夕陽に染められた室内にふわりと満ちた。
ピアノの音があの子に繋がっているような気がして、曽我は音の余韻が佇む空間を見つめる。
瞳の中であの子の……塩谷の面影が揺らいで見えた。




「あらあら。緊張してるわねぇ。ほら、リラックスリラックス」
枝村のおどけた声にさえ、曽我は肩をぴくりと強張らせる。その様子をおかしそうに眺め、枝村は肩をぐるぐると回してみせた。
「そりゃあ、緊張しますよ……」
まさか、本選に残るなんて思ってなかったから。
曽我は、出場者控え室で身を硬くしていた。レンタルのタキシードは少し袖が短いような気がして落ち着かないし、何より、着慣れていないドレスシャツが息苦しくて仕方がなかった。
枝村の熱心な指導のおかげで、ブランクは思っていたよりも早く取り戻すことができた。課題曲も自由曲も、まだ不安は残るものの、枝村からは及第点をもらった。後は、本番ですべてを出し切るだけだ。
それはわかっているが、他の出場者たちと同じ控え室に詰め込まれると、緊張しないはずがない。
このコンクールは応募資格が十七歳からだ。他の出場者は当然、ジュニアコンクールくらいは経験があるだろうし、音大生らしき者も多そうだった。
この中で、曽我が一番経験が浅いのは明白だ。
曽我は落ち着かない気分でもう一度控え室の中を見渡した。塩谷一史の姿は見当たらない。控え室はいくつか用意されているようだから、別の部屋で待機しているのだろう。
曽我は深い溜め息をつき、立ち上がった。
「すみません、先生。ちょっと外の空気を吸ってきます」
本選の開始までまだ時間がある。それまでに少しでも気持ちを落ち着けたかった。曽我は控え室を出て屋上へと向かう。
人前でピアノを弾くのは、おそらくこれが最後だ。……もしかしたら、ピアノに触れることさえ、最後になるかも知れない。
高校を卒業したら就職する。母の知人の紹介で、働き先ももう決まっていた。そのことに不服はない。自ら望んだことだ。
弾くことはなくなっても、ピアノが好きだということに変わりはない。これからは演奏する側ではなく、聴く側になるのだ。それだけのこと。仕事を始めれば自分の給料で演奏会へ行くこともできる。
塩谷一史は、ピアニストとして生きていくのだろう。それなら、彼のことを見守り続けることはできる。
言葉を交わすことはなくても、彼のピアノに耳を傾けることはできるのだ。
それでいい。元々、叶うはずもない恋なのだから。
だけど……だからこそ、今日は精一杯力を出し切って弾こう。そう思った。
彼も同じ会場で他の出場者の演奏を聴くことだろう。
塩谷の耳に自分の音が届く、最後のチャンスだ。
思いを込めて弾こう。
そうして、諦めよう。
ピアノへの夢も。この恋も。
鬱々とした気分で薄暗い階段を登る。突き当たりには、重そうな鉄扉が見えた。幸い、施錠はされていないようだ。
ほっとして、曽我は扉に手をかけた。
開いた途端、目の前に広がったのは青空。澄んだ秋の空だった。心地好い風が吹き抜け、曽我の髪を乱す。
少し肌寒いけれど、控え室のこもった空気よりもずっと気持ちがいい。
曽我は肩の力を抜き、屋上からの景色を見渡した。
隣接するホテルやビル、道路を挟んだ向こうには川が流れているのが見える。水面は陽光を受けて輝き、眩しかった。
目を細めていると、ふと視界の端で黒っぽい影が動く。何かと思い視線を向けると、そこには一人、タキシード姿の少年が立っていた。
気怠そうに柵にもたれ、空を見上げている。柔らかそうな髪が風に踊り、小さな耳が覗く。
その垣間見えた横顔に、曽我は足を止め息を呑む。
塩谷一史だ。
そう思った途端、鼓動が跳ねた。
一気に頬が熱くなる。心臓は自分のものだとは思えなくくらいにバクバクと鳴っている。
塩谷は、まだ曽我の存在に気づいていないようだ。
唇は、小さく何か呟いている。これから弾く曲のイメージを膨らまそうとしているのかも知れない。
声をかけようか。
でも、なんて。
……邪魔をしちゃ悪いだろうか。
突然のことに頭が真っ白になり、言葉が出てこない。
酷く喉が渇いて、生唾を飲む。その音を聞かれたような気がして、恥ずかしくて頭に血が上る。
何か、一言だけでも言葉を交わしたい。
だけど、どの言葉も適切ではないような気がして、焦りばかりが募る。
君のピアノが好きだ。いつも見ていたと言ったら……驚かせてしまうだろうか。
「あの……っ」
ようやく出た声は擦れて風に乗る。
もう一度、自分を奮い立たせて声をかけようとしたそのとき。
「一史、こんなところにいたのか」
背後から、男の声がした。塩谷を親しげに呼んだのは、メタルフレームの眼鏡をかけた、若い男だ。その面影に見覚えがある。確かこのコンクールの優勝者で、今はソリストとして活動しているピアニストだ。
呼び声に、柵にもたれていた塩谷がゆっくりと振り返る。少し不機嫌そうな顔だ。
「そろそろ戻りなさい。お母さんたちが心配しているよ」
「……わかった」
不服そうにしながらも、塩谷は男に従い歩き出す。
落胆のためか、それとも声をかける機会を失い緊張が解けたのか……曽我は大きく息を吐いた。
しかし、背後の男は曽我の存在を訝しく思ったらしい。棘のある声で塩谷に訊ねる。
「一史、その子は? 知り合いかい?」
その言葉に、塩谷は改めてこちらに視線を向けた。鳶色の瞳がじっと見つめてくる。
再び、曽我の鼓動は他愛もなく忙しく鳴る。間近に見た塩谷は頭の中で描いていたよりも幼く、どこか頼りなげだった。
塩谷は不思議そうに曽我を眺め、小首を傾げた。その一瞬、不機嫌そうな表情は和らぐ。
「さぁ、知らない」
小さく呟き、塩谷は男の元へ駆けて行った。
すれ違うとき、ほのかに石鹸のような香りがした。
身じろぎもできずにいる曽我の背後で、鉄扉が閉まる冷たい音がする。
夢からも恋からも拒絶されたような気がした。
諦めとともに溜め息をつく。
届かない思いには、今日でさよならしよう。
ありったけの思いを込めて演奏して、その後は、すべて夢だったのだと思おう。
恋心を封じ込めるように、何度も、何度も自分に言い聞かせる。
ふと吹き抜けていった風につられ、曽我は空を振り仰ぐ。
塩谷が見ていた、同じ空。
目が痛くなりそうなほど、青く高く澄み渡っていた。





2009/8 イベントで配付したペーパーにつけたおまけSS