手鏡



漆塗りに梅の模様が描かれた手鏡を母にもらいました。

とても綺麗な鏡で、母がその鏡に姿を映している時、わたくしは何度もそれをちょうだいと母にねだりました。
母はいつも鏡の中で困った顔をしながら、細い紅筆で唇を染めていました。
母はなかなかそれをわたくしにくれませんでした。それは、祖母が母に残したものなのだそうです。
どうしても欲しいというと「あなたはまだお化粧しないでしょう?」と、赤い口で言うのです。
ある時、母は襟元をはだけ、項を露にして明るい縁側に座っていました。
左の手にはあの手鏡。右の手には太陽を反射して光る剃刀を持っていました。うなじの産毛を剃ろうとしているのでしょう。
お庭では笹がさわさわと風に揺れ、まだ固い蕾の紫陽花にかたつむりが躙っていました。
玉砂利が白々と輝き、わたくしが昨日遊び飽きて放り出した鞠が転がっています。
錦糸銀糸が目の中に飛び込んで、私は痛みを感じたような気がして、その場にしゃがみ込んでしまいました。
それを見て、母が心配そうに「ーーちゃん、どうしたの?」と声をかけてきます。とても優しい声。
母はとても美しい人です。私と手を繋いで歩いていても、すれ違ったおじさんが振り返って母を見るのです。
わたくしは、そのおじさんの視線が気持ち悪いと思い、でも、母が美しい事は誇らしく思っていました。
大好きな母。
「お母さん」
そう言った声は子供っぽくて甘えていて、それが恥ずかしくて腹立たしくて、そしてわたくしは次に顔をあげた瞬間、母のほっそりとした肩に体当たりしていました。
手鏡を、奪おうと思ったのです。
どうしても欲しいの、ねぇ、ちょうだい。お母さん。
驚いた母は、私を避けようとしました。刃物を持っているから、私に怪我をさせてはいけないから。
でも避け切れず、母は項に当てていた剃刀の刃を、過って引いてしまいました。
お庭の玉砂利に、口紅よりも赤い雫が飛び散ります。
そうして、私は手鏡を手に入れたのです。
母の、形見として。




おわり

2004/7