ラストノート 2



 珍しくニナの方が早起きをしていた。
「どうしたの?」
「カヤ、静かに。猫がきているのよ。ほら、あそこ」
 ニナはテラスからそっと庭の様子を窺っている。その視線の先に、斑模様の猫がいた。
猫はわたし達が見ていることなどお構いなしに、庭を歩き回り、植物のにおいを嗅いだ。
堂々とした様子は、わたし達がこの屋敷の持ち主ではないことを悟っているように見えた。
「可愛いわね。何か食べるかしら? オイルサーディンくらいしかないけど」
「あんなに油っぽいものあげて大丈夫なの?」
 わたし達が顔を見合わせ、答えが出ずにまた猫を見た。
二人とも、猫を飼ったことがないからわからないのだ。
「ねぇニナ、あの猫、妊娠してるわ。おなかが大きい」
「本当ね。仔猫、いつ生まれるのかしら」
「そうね……」
おなかはずいぶん大きいし、乳が張っている。多分、もうすぐ生まれる。夏の終わりか、秋の初めに。
それを口に出せなかった。明日や明後日のことさえ考えたくない。未来なんてなければいい。
ずっと、今日と昨日と一昨日を繰り返していたい。そうすれば、ニナとずっと一緒にいられるから。
「ニナ、知ってる? 牡猫のあれって棘があるんですって」
「え……嫌だ、どうして?」
「抜けないようによ」
 ニナの表情が強張る。まずいことを言ったような気もするけれど、わたし達には仔猫の誕生を否定する必要があった。
新しい命はいつも未来と共に無慈悲にやってくる。
「そんなひどい思いをしてまで繁殖しなくちゃいけないなんて……可哀想ね」
 胸を痛めるニナの横顔は美しかった。わたしは、彼女が苦しむ時にとても綺麗な表情をすることを知っている。
多分、笑顔より綺麗。
「痛かったでしょうね」
可哀相な猫。可哀相なニナ。
わたし達は沈んだ気分のまま薄いパンケーキにすぐりのジャムを塗って食べた。
蒸らす時間の足りなかった紅茶は渋くて尖った味がした。
猫が怖かった。新しい命を内包した猫に脅威を感じた。
いつもは二人で庭に出て、食べられる植物を探したり花を摘んだりしたけれど、今日はそんな気分になれなかった。
まだ、あの猫がいるような気がして。庭が急によそよそしく見えた。
わたしはクロッシェの続きを編もうと思い、ニナには頭が痛いからもう少し眠ると言って寝室に篭った。
ベッドに腰かけ、細い針を持ち糸をかけては抜いた。絡まり合い、糸は形を変えていく。
それが昨日までは楽しく感じられたのに、今日は不気味で仕方なかった。
最初は羊だった。
毛を刈られて、糸に寄られて、染められて、綛糸にされて、それを巻取って玉にして、今度はケープに変わろうとしている。
いろいろなものが変わっていく。
月は欠け太陽は沈み星は流れ、花は枯れて実をつける。
猫は孕み、ニナは日を追う毎に綺麗になって、大人の女に変わる。
急に疲れを感じて、私はクロッシェの手を止め、ベッドに横たわる。
嘘のつもりだったのに本当に頭痛がしてきた。
なんだか、目の前が霞んで見える。窓からは午後の陽が射し込む。
侵入する光は昨日より少しわたしに迫ってくる。
微かな、秋の気配。
午睡は重く、苦しかった。
息ができない。
身体が何かとろりとした液体に沈んでいく。
薔薇を溶かしたみたいな色。
でも、色づいているのは血のせいかも知れない。
昔見た、本の挿絵を思い出した。
石を抱いて水に沈む女。魔女裁判にかけられているのだ。
あの魔女はニナによく似ている。
可哀相に、本当はただの無力な少女なのに。

ニナの浮かれた声で目が覚めた。
リビングからわたしを呼んでいる。
「ねぇカヤ、まだ具合が悪い? 眠ってるの?」
そんな大声を出しておいて眠っているのでもない、そう思いながらわたしは編みかけのケープをベッドの中に隠し、下の階へ降りた。
「……どうしたの、ニナ」
ニナは上気した顔でわたしに近づく。
「また、何か見つけたの?」
「そうよ!」
ニナはこの屋敷を物色するのが好きだ。
わたしも最初はもの珍しさと必要に迫られて、何か使えるものはないかと探したが、すぐに飽きてしまった。
散らかった部屋と埃が煩わしかったせいもある。
「見て。これ、どこで見つけたと思う?」
そう言って悪戯な笑みを浮かべながら、小さな箱を掌に乗せて差し出した。
赤い包装紙で包まれた箱には、金色のリボンがかかっている。
包装紙の角は少し傷んで艶をなくしていた。
「さあ…ドレッサーの奥?」
「違うわ。そこは散々見たもの。もう変色したクリームの瓶があるだけよ」
わたしは小さく溜め息をつく。
まだ頭が痛いのだ。
「……ごめんなさい。カヤは気分が悪いんだったわね……」
花が萎れるみたいに頭を垂れ、ニナは俯く。
「大丈夫よ。でもそろそろ、どこで見つけたか教えてくれる?」
「書斎よ。デスクの抽き出しにあったの。それもうんと奥の方」
「秘密のプレゼントね。愛人にでも渡すつもりだったのかしら」
わたしが話に乗ったから、ニナはまた笑顔になり、リボンの端を摘んだ。
開けてもいい? と訊いているのだろう。
わたしは黙って頷く。
なんだか、小さな儀式みたいだ。
胸の奥がざわざわする。
間近にニナの顔があるせいかも知れない。
でも、何か嫌な感じがする。
避けられない残酷な運命を紐解くような。
ニナの細い指はするすると金色のリボンを解き、もどかしそうに少し眉を顰めて、赤い包装紙を剥ぎ取り、中から現われた深い緑の箱を開けた。
「綺麗……」
中を見て、ニナは呟く。
入っていたのは、香水だった。
お話の中の貴婦人が使うような、深紅の細い糸で編まれたポンプつきの、華奢な香水瓶。
薔薇の花びらを凍らせたような淡い淡いピンクの硝子は多面カットを施され、金色の細い文字で愛の言葉が歌うような曲線で書かれていた。
「どんな香りだと思う? ねぇ、吹いてみていいかしら」
ニナは指先でポンプを摘む。それが、赤い果実のように見えた。
「……変質してないといいけど」
「さあ…大丈夫じゃない?」
ジャムもクリームも大丈夫だったじゃないと言ってニナは笑う。
確かに、口に入れるものにはそれほど注意を払わなかったのに、香水ごときに躊躇する必要はない。
変質していたとしても、変なにおいに二人で顔をしかめるだけだ。
後は、窓を開けて空気を入れ替えればいい。
いっそ、毒でもかまわない。霧状になった毒がわたし達の肺に忍び込む。
呼吸が止まってしまえばいい。
ああ、でもその前に、髪を梳いて綺麗な色のワンピースに着替えて、パントリーの奥にあった古いワインも開けてみたい。
大事にとっておいた干し肉と枇杷の缶詰めも食卓に並べて。
わたしの空想などはおかまいなしに、ニナは呆気なくポンプを指で押した。
ふしゅっと軽い音を立て、細かな霧がわたし達の間に舞う。
途端、甘酸っぱい香りが広がる。
わたし達は注意深くそれを嗅ぎ、顔を見合わせる。
「傷んではいないわね。いい香り」
嬉しそうにニナが言う。
柑橘系の爽やかな果汁と、蜜をたたえた花のような香りがした。
「官能的な香りね」
わたしは思わず息を詰め、口元に手を当てた。
「そう? わたしはおいしそうだと思うわ。なんだか、果物みたい」
ニナはきょとんと瞳を丸くして言う。
そして、今度は空中ではなく、自分の胸元へ香水を一吹きした。
「子供ね、ニナ。おいしそうだから官能的なんじゃない」
「嫌ね、カヤったら大人ぶって」
くすりと笑って、ニナは香水を振った辺りを撫でた。
鎖骨と、胸の膨らみの中間くらい。
わたしの表情が曇るのを、首を傾げながらニナは覗き込む。
大きめに開いた襟元から、少しだけ下着のレースが見えた。
「いやらしい香りよ。花が虫を誘うみたいな。浅ましくて愚かで……わたしは嫌いだわ」
呆れるほど原始的で純粋な誘惑。ニナの胸から香る甘いシロップ。
やっぱり、毒があるのだ。
だって胸が苦しい。
「……だって、奥さんを裏切って若い女に送るはずだった香水でしょう。穢らわしい。こんなもの、つけないで! ニナ、今すぐシャワーを浴びてその香りを落として!」
自分でも意外だった。わたしはいつの間にか、叫ぶように、懇願するようにニナに訴えた。彼女から立ち上る香りに心が乱される。
「カヤ、どうしたの。まだ頭が痛いの? 少し変よ。なんだか苛々して」
突然の癇癪に苦笑しながら、ニナはそっとわたしの額に触れる。ひんやりとした指先。
そう感じるのは熱があるせいかも知れない。
「ねぇ、頭はどの辺りが痛いの? キスをしてあげるわ」
「じゃあ、唇にして」
「……唇が痛いわけじゃないでしょう?」
穏やかな声で言いながら、ニナはわたしの唇に人指し指で触れた。
爪が上唇に当たる。
こんな時、ニナは急に大人になったような顔をする。
わたしが意地悪を言ってからかっても、疲れて思い遣りのないことを言っても決して深刻な言い争いにはならない。
ニナがこうして寛大な笑みを浮かべるから、わたしは自分の卑小さに打ちのめされるのだ。
「……冗談よ。ニナのキスで頭痛が治るわけじゃないわ」
「もう、本当に機嫌が悪いわね」
そう呟きながら、ニナはわたしにキスをした。
唇がほんの一瞬重なる。
吐息が温かい。
それからニナはわたしの額と、こめかみと鼻先にキスをした。
「カヤ、もう少し部屋で眠っていらっしゃい。それとも、ミルクを温めてあげようか?」
黙って首を横に振る。
ニナは困ったような顔をして、わたしを見つめている。
また、鼻孔をつく香り。
ニナの身体で温まり、濃度を増す。
「カヤ……どうしたの? 震えてる。寒いの?」
違う。違うのニナ。怖いの。
わたしが床にうずくまると、ニナも一緒に座り込んで、小さな子を宥めるように頭を撫でてくれた。
「大丈夫よ、カヤ」
そう言うニナの声も不安そうだ。
わたし達は知っている。
もうすぐ、夏が終わること。
パントリーの中の食料はほとんど食べ尽くしてしまっている。
お財布のお金は、もう硬貨数枚しか残っていない。
魔法が溶けてしまう。
短い、蜜月の。
「ニナ、わたし…帰りたくない」
「わたしもよ、カヤ。ずっとここで暮らせたら……どんなにいいでしょうね」
細い腕が背中に回り、抱きしめられた。
柔らかい胸が頬に触れる。
綿のワンピースのさらさらとした肌触りに、熟れた果実の香りは不釣り合いだ。
嫌悪と陶酔で狂いそうになる。
「どこにも…行かないでね、ニナ。ずっとここで一緒に…いられるよね?」
ニナはただ頷き、わたしの額に頬を擦り寄せる。
わたしは恐る恐るニナの乳房に触れた。
ゼリーの固まり具合を確認するように慎重に。
ニナは少し戸惑うように息をつき、でも、そのまま触れさせてくれた。
胸元の釦を一つずつ外し、下着をずらして直に触れるニナの肌は、思っていたよりも温かくなかった。
でも気が遠くなりそうなほど柔らかい。わたしは白い膨らみに頬を寄せ、先端の果実を口に含む。
歯をたてると甘い果汁が迸るのではないかと想像しながら、無心に吸った。
「カヤがわたしの赤ちゃんだったらいいのに」
ニナが恍惚とした声で呟く。
本当に、そうだったらいいのに。
わたしは泣きながら、ニナの胸に縋りつく。
どうしたらいいのか、わからなかった。
庭を染める夕陽は大きく、赤い。

窓から吹き込む風が、開き切ったスカビオーサの花弁を一つ散らした。
もうこの花の季節も終わりだ。
雄蕊が零した花粉は、雌蕊だけではなく花びらも葉も花瓶もその下の白いリネンも汚してしまう。
わたしは窓を閉め、カーテンを引いた。
秋の夕陽は何故、真夏のそれよりもこれほど強烈で容赦ないのだろう。
何かを恨むように、深紅に燃える。
「寒くなってきたわね、ニナ」
わたしは揺り椅子に座る彼女に声をかけ、微笑む。
刺繍は相変わらず、進まないままだ。
でも人のことは言えない。
わたしのクロッシェも、あの日から手が止まったままなのだ。
いつまでも編み終わらないケープ。
ニナの肩を温めることはもうないだろう。
「ニナ、いつまでも窓辺にいると身体が冷えてしまうよ」
そう言うわたしに応えるように、椅子は揺れ、小さく音を立てた。
「聞いてる? 居眠りでもしているの?」
からかうように言い、ニナに近づく。
ふと視線を感じて振り向くと、鏡があった。
いつもそこにあるのに、何度もその中の像にどきりとしてしまう。
古い鏡は裏に塗られた硝酸銀の定着が悪く、映すもの全てを歪ませる。
わたしの顔も醜く歪んでいた。
ぞっとして、思わず頬に手をやる。
するりとした絹の手袋の感触にいくらかほっとしたけれど、胸の中はざらざらと砂が満ちたように不快だった。
気味の悪い薄汚ない鏡。
でも捨てることができない。
真鍮細工で縁取られた世界が時折、目が痛くなるほど鮮やかで明瞭に輝くから。
花瓶の中のスカビオーサはまだ蕾を多くつけ、真夏の空のような色をしている。
さっき窓を閉めたはずなのに、レースのカーテンは風に踊り、ニナのスカートの裾を翻して白い脚の上を嘗めていく。
鏡の中でニナがこちらを向き、微笑む。
少女の時と同じ、あどけない笑顔で。
長い間……もうずっと長い間、彼女はこんなに綺麗で、穢れを知らないまま。
わたしは鏡ごしにニナの頬に触れた。
手袋を外し、鏡をなぞる。冷たい感触。
ニナの頬は薔薇のように色づいているのに。
鏡面を撫でる私の手の甲は、血管が浮き、薄茶色の染みができていた。
爪はささくれて乾き、血の色を透かすことなく白く濁っている。
「ニナ……ニナ、どうしたらわたしはそこへ行けるの?」
静かに、首を横に振る。いつもと同じニナの仕種。
「ニナ……行かないで。どこにも…行かないで」
わたしの懇願を聞き、鏡の中のニナは悲しそうに眉を顰める。
ああ、わたしはニナを愛しているのに、どうして彼女の悲しげな顔を一番美しいと思ってしまうんだろう。
「ごめんなさい、ニナ。ニナ……わたし……」
反転した世界の彼女は静かに部屋を出て行った。
急に鏡の中は色褪せる。映るのはただ、古ぼけた屋敷の内部と、素性を偽り一人住み続ける卑しい老婆だ。
白い髪がほつれ、頬に落ちる。
わたしは自分の姿を直視できず、鏡に背を向けた。
揺り椅子は、誰も座っていないのにゆったりとリズムを刻んで前に後ろに動いている。
その度に、背もたれにかけた白いワンピースも揺れた。ニナがよく着ていた物だ。
揺り椅子から刺繍枠が落ち、乾いた音をたてる。
わたしはワンピースを胸に抱き、床に頽れて泣いた。
綿の乾いた感触。もうニナの体温など残っていない。
それでも、私は必死で彼女の痕跡を求め、布地に顔を埋める。
微かに、グレナデンの香りがした。



おわり