マリア



 彼女の名はマリア。
 名前負けってのはこういう事なのか。いや、負けていると言うよりは、その名前の持つ聖母としてのイメージを打ち砕いていると言った方がいいかもしれない。
 本当は黒い筈の髪を金色に染め、素顔が想像できない程の化粧を施していた。マリアは美しい女だったが、名前の持つ清らかなイメージとは程遠い。どちらかと言えば退廃的なイメージを纏った女だった。辛うじて乳頭が隠れる程度に胸元の開いた、本当に下着を身につけているのかと疑いたくなる身体にぴったりとしたドレス。黒や赤、紫を好んで身に着けていた。
 俺の女房だった女だ。

 俺は小さな飯屋を始めたばかりで、客もろくに来なかった。元々、人あしらいは不得手だった。ただ、親父が残した僅かな土地で他に何が出来るのか考える頭もなかった。
 残した土地と言っても古く細長い建物だった。親父は不動産業をしていたが、持っていた土地の殆どは国に巻き上げられた。親父は貧しい家庭から成り上がったクチだから、元々先祖代々持っている土地などなかった。親父もまた、昔金に物を言わせて誰かから巻き上げた土地を持っていただけだ。今、自分の土地、家を持っているのは、大昔からの資産家だとか、貴族連中だ。
 ともかく親父の遺産として、残っていた建物をもらったわけだ。二階三階を住居にし、一階を店鋪にしていた飲食店だった。どういう物を売っていたのかは知らないが、調理器具や什器、椅子やテーブルも一式そろっていた。そこで、それをそのまま利用して商売を始めたのだ。
 料理だけはそこそこの腕の筈だ。俺は幼い頃、下働きとして金持ちの家に放り込まれた。ちょうど当時厨房の使用人が足りなかったその屋敷で、俺は飯炊きの手伝いをしていた。最初はひたすら食器洗いだったが、そのうち野菜の皮剥きをさせられ、盛り付けをまかされ、いつの間にか俺の右手には包丁が握られていた。飽食家の主人が黙って残さず平らげていたのだから、少なくとも不味くはなかったのだろう。
 しかし、店は繁盛しなかった。
 それはそうだろう。俺の働いていたのは金持ちの屋敷で、食うのもお上品な育ちのいい連中だった。しかし、今住んでいる町には、長テーブルに向かってナイフフォークで飯を食うような輩はいない。かき込む様な食い方しか知らない様な男ばかりだ。
 価格帯は一応近くの飲食店を参考にし、それに見合った材料でメニューを考えた。しかし、そもそもそれに無理があったのだ。俺の覚えたのは材料の値段なんか気にしないような贅沢料理で、コストを計算しながら旨いものを作るなど、至難の業に思えた。
 迷いながら、しかし店をたたむのも癪でそのまま営業を続けていた。
 マリアは、俺の店の最初の常連客だった。夕刻、まだ陽が沈み切らない頃に毎日のように現れて俺の料理を文句を言いながら平らげていた。
「ほんっとあんたんとこの料理はさえないわね」
 注文した品を一口飲み下すと、必ずこんな台詞を吐き出した。その後も不味い不味いと言いながら、米の一粒も野菜の一欠片も残さずに食べていた。
「そんなに不満なら、他の店に行けばいいだろう」
 ある時、俺はマリアの雑言に耐えかねて、客には言ってはいけないであろう事を言ってしまった。
マリアは一瞬困ったような顔をして、それから少し顔を赤らめて言った。
「だって他の店は混んでるもの。ここはいつ来たってガラガラだから好きなのよ」
「飯は不味くても?」
「そ、そうよ」
 そう言って米粉の麺のスープを最後まで飲んだ。
「あんたは安い物の料理の仕方を知らないのよ。どういう育ち方したの? 安い肉には安い肉なりの調理方法があるの。そんな事も知らないで商売してるの?」
 蓮華と箸をテーブルに叩き付ける様に置き、マリアは何を怒っているのか、そのまま頬を膨らませて出て行った。
 俺はマリアの様子が解せず、空になった食器を洗った。自分の料理はここの連中の口に合わないのはわかっている。だが改善に勤しむ気にもならない。そもそも、やりたくて始めた商売ではなかった。
 唯一の常連客のマリアを怒らせてしまったので、もう店をたたもうかと思った。もっと、早くたたんでも良かったのだ。変な意地のようなものもあったが、誰に向けた意地なのかもわからない。
 翌日、俺は店のシャッターを半開きにしたまま、店の中でぼんやりとしていた。考える事と言えば金の事だ。この建物を売ったとしても大した金にはならないだろう。他に金の工面をするあてもない。
「ちょっと! 店開けないの!?」
 マリアの声だ。いつも彼女が訪れる時間よりも随分早い。
 シャッターを上げると、ジーンズ姿のマリアがいた。長い髪は後ろで一つに束ねられ、化粧もしていなかった。化粧をしていないマリアは驚く程若かった。もしかすると十代かもしれない。
 彼女は呆然としている俺の脇をすり抜け、厨房に入って行った。
「おい?」
「手伝ってあげるって言ってんのよ、もう、鈍い男ね」
 エプロンをつけたマリアが俺の手を取る。
「手伝うって言っても、仕事のない時だけね」
「仕事って?」
「あら、知らないの? うっそぉ。ちょっとショック。自分ではけっこう有名なつもりだったんだけどな」
 そう言って、彼女は突然歌い出した。題名はよくわからないが俺が屋敷で働いていた時、主人がよくかけていたレコードで聴いた事があるような気がする。
「歌手よ、一応。酒場で歌ってるだけだけどね」
「娼婦だとでも思ってた?」
 正直、思っていた。しかし、そう聞いてあの派手な衣装も化粧も納得がいく。
「ねぇ、どうして私がこの店に通い詰めてたか、不思議?」
「ああ…」
「ふふ。あんたに惚れてた…なーんて事はないのよ」
 冷蔵庫の中の食材をチェックしながら、マリアは屈託なく笑った。それはそうだろう。俺もそんな事は期待していない。マリアが見た目通りの年齢だったなら、若い時に作った娘だと言っても通用する程歳が離れている。
「なんかね、あんたの料理はちょっと懐かしい感じがしたのよ」
「信じられないかもしれないけど、私ほんとは名家のお嬢さんだったのよ。何年も前に家はなくなってしまったけど。苦労しちゃったから、すっかりスレた女になっちゃったわ」
 父親は異常な程過保護で、殆ど部屋から出してくれなかった。顔を合わせると言えば、両親とメイドだけだった。他の使用人は顔さえ知らなかった。
 彼女はそう語った。
 その話を聞いた時、俺は鳥肌が立った。滅多に感情を揺さぶられる事はないのだが。
 俺の働いていた屋敷の主人にも娘がいると聞いた。そして、彼女は自室から一歩も出ないと。
「マリア…」
 マリアは鼻歌を歌いながら、冷蔵庫に残っていた野菜を刻んでいる。俺が名前を呼ぶと包丁を片手に持ったまま、口の端を釣り上げて笑った。はすっぱな感じの笑顔だ。しかし、化粧をしていないせいか、それは少女の笑顔に見えた。
 マリアの歌が続く。屋敷の主人が好んだ女性ボーカルの曲だ。こういう音楽をなんと言うのだろう?俺はそんな事さえ知らない。
 聞きたい。マリアに、その歌はどこで覚えたのか。
 しかし、俺はマリアの歌を遮るのが惜しくて、ずっと尋ねる事が出来ずにいた。

 彼女が去った今、店は大繁盛とはいかないまでもそこそこ客は入る様になった。彼女の助言で出す料理を変えたおかげだ。
  胸の中を揺るがす、マリアの澄んだ歌声。それは鮮やかにいつでも蘇る。
 目を閉じると何故かうろ覚えの教会の風景が浮かんだ。鮮やかなステンドグラスと、聖母像。その中にマリアがいた。

 おわり

2001/9