あなたのピアノが私の世界を終わらせる。

あなたは人よりも少し指が短い。
ピアニストらしくないその指をあなたはいつも気にしていた。
一度に押さえられる鍵盤の数がピアニストの価値を決めるのだとでも言うように指の股を広げては恨めしげにそこを撫でた。
あなたの代わりに刃を持ち指と指の間を裂いてあげたい。
そうすれば少しは楽になるのだろうか。あなたの音は広がるだろうか。
懸命な顔で鍵盤を叩くあなたは少しずつ頭が傾ぎ猫背になる。
肩をいからせてピアノを弾くあなたはいつも何かに怒っているようだ。
私はいつも息をつめてそれを見ていた。
あなたのレガートはいつもぎこちなく強張っていてなめらかでもなく優雅でもない。
それでも嗚咽を耐えるようにピアノを弾くあなたの横顔は他の何をしている時よりも綺麗。
そう言うとあなたはそんな事には何の価値もないと癇癪を起こして姪っ子から贈られ食卓に飾っていた黄色の薔薇に八つ当たりをした。
昨日のコンサートでもらった花束は床に叩きつけられ踏みつけられ床板に染みを作る。
数分後には激しく後悔して叱られた子供みたいにしょんぼりして千切れた花弁を掌で弄びながらあなたは大人気なく少し泣いた。
私はあなたのそばに座ってただ涙の雫が磨いていない曇った板張りの床に落ちるのを眺めていた。
昨日のコンサートであなたはしくじった。
小さな公民館のピアノコンサートであなたの些細なミスに気づいた客がどれだけいただろう。
観客はあなたのまだ幼い生徒とその保護者。あとは近所のおじさんおばさんが欠伸を噛み殺しつつ見ていただけだ。
それでもあなたは自分の失敗に深く傷つき自分を責めた。
観客は愚鈍だけどあなたの神経はいつも見ているこちらが切り刻まれそうに尖っている。
そしてあなたの少し短い指先はあなたの理想通りには動いてはくれない。
あなたの頭の中と実際に発せられる音はいつもずれているのだろう。
完全主義者は幸福にはなれない。
あなたを見ていて思う。
もっと楽な生き方があるのにと。
でも楽な生き方が幸福だとは限らない事はあなたも私ももう随分前から知っている。
あなたは多分ピアノを捨てれば楽に生きていける。
指が短い事を気に病む事もなくなる。
思い通りに弾けない為に自分の指を呪う事もなくなる。
それがあなたにとって幸福だと言うなら私はあなたの手を手首から切り落としてあげるのに。
あなたはひとしきり泣き棘の残った薔薇の茎を掴む。
指先から黒い血が流れる。
それを見てあなたは少し笑う。
その笑顔は私が見た中で一番悲しい笑顔だった。
あなたは私の顔を見つめる。
瞳はただの穴のようだ。
それから重そうに自分の身体を引き上げまた椅子に座った。
あなたは言う。
きみに贈りたい曲があると。
私は黙って頷きあなたを見上げる。
あなたは深呼吸をしてピアノに向いしばらく沈黙しそれから両手を胸の前で組んだ。
それは何かの儀式のように見えた。
まだ血に濡れた指であなたは鍵盤を叩く。
聴いた事もない曲を空気の振動に乗せる。
私は音楽の事はわからないけど何かの悲鳴のようだと思った。
部屋の中に満ちる音。
それは私の肺の中まで侵入し私の呼吸を塞ぐ。
頭の奥で小さな虫が羽化したような錯覚。
叫びだしたいのに私はあなたの演奏を邪魔する事が出来ない。
このままあなたのピアノに殺されるのも悪くないと思った。
でもそうなる前に音は止んだ。
空中に舞っていた何かが死に絶え床に落ちる。
私はやっと息をつきあなたに尋ねた。
それはなんていう曲なの?
あなたは無感動に首を横に振る。
タイトルはないと。
それから血まみれの手で床に座り込んでいた私を抱き起こして別れの言葉を告げた。
私に手を切り落とされるよりもピアノに心を切り刻まれるほうをあなたは選んだ。
あなたは怖れていたのだ。
私がいつかあなたからピアノを取り上げてしまうのではないかと。
事実そうなれば私達はもっと穏やかにつき合っていけるのではないかと考えていた。
でもピアノを捨てたあなたにはどこにも魅力はない。
頭に描く楽譜と流れ出す音の齟齬に苦しみながら弾くあなたのピアノが好きだった。
不完全な演奏は私の歪ですぐにばらばらになってしまう心を繋ぎ止めてくれた。
私にとってはあなたのピアノこそが世界を形成する骨組みだった。
私はただそこに絡みついていた綿飴みたいで支える物がなくなればカタチをなくし崩れ落ちるしかなかった。
地面に落ちた私は太陽の熱に溶かされただの汚物となる。

晴れた午後。
聞こえてくるのはお隣の少年が練習する辿々しい懐かしいバイエル。


 

 おわり

2004/8