虹色の虫



 ひび割れた鏡に顔を写してはダメよ。

 同じ歳の妹の言葉だった。
 そんな事は知らない。私はこの鏡が気に入っているのだ。
 壁に掛けた楕円の鏡の脇には、子供の姿をした天使のレリーフがあった。お腹はぽっこりと膨らみ、手足は小さく愛らしい。なのに顔は長い間生きていた事に疲れ、老いた事への恨みに歪んでいる。天使は花籠を持ち、籠からは花が溢れ、頭上には小鳥が飛んでいる。
 楕円の鏡は裏側から滲み出た染みで汚れ、上から三分の一くらいの所に右肩上がりの亀裂が入っていた。
 私は傷のない下三分の二の部分に顔を写す。 私以外誰もいない古い家は、通気が悪くいつも湿っぽい。そのせいで私の癖っ毛はいつもぼさぼさだった。
 日に当たらなくなってから、どれくらいの時が経ったのだろう。私の頬は白く、口元はかさかさしていた。目の下が少し窪んだせいで、病気でやつれて死ぬ間際の母によく似ていた。

 危ないから新しい鏡を使いなさい。

 同じ歳の姉の言葉だった。
 私達は三つ子だった。
 姉と妹は、いつも同じ格好をし、同じ化粧をし、同じように髪を束ねた。向かい合う姿は鏡像そのものだ。マシュマロみたいな頬、長い睫、キラキラした粉が入った口紅で描かれた唇。
 私は彼女らが大嫌いだった。
 自分と同じ姿の女の子が存在しているなんてぞっとする。
 そう言うと、彼女らは声を揃えて「あなたは変わっているわ」と私を睨みつける。
 私は自分が三つ子の一人である事を恨んだ。
 彼女らは、私にも同じ姿をする事を求める。
 私だけが違う姿を望んでいる事を悲しむ。
 それは、自分の身体を三分の一切り離されたように痛いと言う。
 同じ姿をして、私が取り込まれて食われてしまったような息苦しさを感じる事は、彼女らにはどうでもいい事なのだ。
 彼女らが髪を伸ばせば、私は耳が出るほど髪を切った。彼女らも髪を切れば、私は髪を真っ赤に染めた。
 二人は同じ姿をしている事に価値を感じている。彼女らは双生児。それでいい。
 彼女らは今も、私とこの家を捨てた時と同じように、可愛らしい色のドレスに身を包んでいるだろう。焼き色がつく前のパンみたいな頬をして、小鳥のような声で意味のない言葉を奏でるだろう。
 鏡の中の私は、彼女らには似ても似つかない、血の気のない顔をしている。
 母の化粧道具はもう古くて変色していて、螺鈿細工のコンパクトを開けると鼻をつく異臭を放っていた。
 私は母の化粧道具を使う事を諦め、父の書斎へ向った。父の部屋には昆虫標本がたくさんある。
 父は一日の殆どを、この虫の死骸部屋で過ごしていた。頭がおかしくなるわけだ。
 私は瑠璃色の羽根の蝶が入った標本箱と、玉虫が幾つか入った標本箱を取り、鏡の前に戻った。
 標本箱の硝子を割り、中の蝶を取り出す。
 虫ピンにお腹を刺された蝶から羽根を毟り、鱗粉を瞼に擦り付ける。きらきらした粉は私の瞼を彩る。
 羽根をもがれた蝶はとても醜い虫になる。
 玉虫の前羽根は爪にはり付けた。鮮やかな緑色で、光の加減でピンクに見えたり紫に見えたりする。とても奇麗。私は夢中で指十本分の羽根を毟り取る。
 割れた硝子で指を傷付け、血を唇に塗りつけた。
 鏡に写る私の姿は、姉妹には似ても似つかない。その事に満足し、私は私に向って微笑みかける。
 鏡の中の私は笑わない。乾いた白い顔で、瞼は虫の死骸の粉で汚れている。爪の上の玉虫には触覚が生え足が生え、指の上を這う。
 気味の悪い感触。私は落とそうと、手を鏡に叩きつける。
 古い鏡は呆気無く天使のフレームから落ち、床の上でいくつもの破片に変わる。
 見下ろすと、いくつもの私の像が床の上に散らばっている。
 踏みつけると私の血液の飛沫を浴びながら、鏡は増殖していく。
 どこからか少女の笑い声がする。同じ顔をした姉と妹が私を嘲笑っているんだろうか。
 私は甲高い笑い声に耳を塞ぐ事も出来ず、幾つも同じ顔を写す鏡を凝視する。
 鏡の中で瞼と爪が虹色に輝く。  

 おわり

2002/11