嘆きの精霊



 歌が聞こえる。
 細く儚い歌声だが、それは空気を震わせて届くと言うよりは、耳に直に訴えかけるような声だった。高い、女の声だ。
 風のない夜、時折こんな風に女の歌声がする。
 時折不快な程高く、金属を擦れ合わせた様な声は森の奥から聞こえる。
 そんな声が聞こえる夜は、決して森の中に入ってはいけないと、祖母に言われた。わかっている、と何度も頷いた。いつも優しげな表情はその時だけ、目も眉も恐ろしくつり上がる。
 それは、深い悲しみの為だと言う事を、僕はその時知らなかった。

 僕はいつか、こんな歌を聞いた気がする。風のない夜、細く震える、女の歌声。誰に教わったんだろう、それは嘆きの精霊の歌だと。
 そうだ、これは嘆きの精霊の声。
 何を嘆いているのだろう。悲しい、とても悲しい声。
 胸を切り裂かれて、ぎざぎざの刃物で内臓を掻き回されるように苦しくなる。泣きたいのに、喉に突き立てられたナイフのせいで、上手く声が出せない。
 どうして僕はそんな例えを思いつくんだろう。
 怖い映画の見過ぎだ。いつも咎められたんだ、どうしてこんなものばかり見るのって。

 女の声に、身体中に痛みが走る。どうしてこんなに悲しそうに泣くんだろう。彼女に何があったというのだろう。
 僕は祖母の言い付けを破って、森に入る。
 祖母は駄目だと叫んで僕の腕を掴んだけど、祖母の力はあまりに軽く、僕を引き止める事は出来なかった。
 僕は、あの声の正体を知りたい。
 あの人は何故こんなに泣いているのか。
 何故、僕の心は何故あの声にこんなにも、引き裂かれるのか。

 森は暗く、天に手を伸ばす青葉が更に影を濃くする。月の明かりを阻むように、木々から手が伸びる。踏み締められて出来た小道を辿る。
 知っている道。これは、もう誰も使っていない狩猟小屋に続くんだ。
 声が大きくなる。僕が近付いたからだ。
 木立の間から、長い髪がゆれるのが見える。それは風に揺れているのではなく、彼女が大きく頭を揺さぶっているせいだ。
 細い指がその髪を掻き毟っている。
 小屋の付近の木は切り倒されていて、そこだけぽっかりと穴が空いたように明るい。森中に行き渡る筈の月明かりを全部集めてきたみたいだ。
 近くで見ると、その指が紅いのがわかる。
 マニキュアではない。血で濡れているのだ。頬や腕に引っ掻き傷がある。おそらく彼女が自分自身で傷付けたのだろう。
 暗い森、黒い木々、彼女の白い肌と白い衣装。血液だけが鮮やかに生命を持っているように見える。
 彼女は泣いていたけれど、涙は流れていないみたいだ。彼女の頬は紅く濡れていたけれど、瞳は月明かりを浴びても、くすんで光を跳ね返す事もできない。
 彼女の手の中に、何か白く丸い物が見える。なんだろう。僕はもう少し近付いて、彼女の前に回り込んだ。
 顔は髪に隠れて見えない。
 手の中にあるのは骨だ。大切そうに抱えている、小さな頭蓋。まだ、朽ちかけた肉が少し残っている。

 祖母に、きつく言い聞かされていた。夜の森に行ってはいけないと。特にこんな風のない静かな夜、狩猟小屋に近付いてはいけないと。
 僕はそれを破ったのだ。

   その日の夕食の後、刺繍をする祖母の傍で、ついうたた寝をしてしまった。だからベッドに入ってからは目が冴えて中々眠れなかった。祖母はとっくに寝入ってしまったらしく、窓から身を乗り出して隣の部屋を伺っても、すでに明かりは真っ暗だった。
 窓の外には蕾を付けた薔薇が、ポーチの明かりに照らされている。明日、明後日くらいには咲きそうだ。少し視線を遠くにやると、森が見えた。
 暗い筈の夜空を、更に暗黒に切り抜くように生い茂る森。
 その森の入り口に白い影が見えた。一瞬、幽霊かと思った。
 しかしそれは母の影だった。ふらふらと、森の黒に吸い込まれるように遠くなる。
 どうしたんだろう? こんな時間に。
 少し迷ったが寝間着のまま靴をはき、母の後を追いかけた。祖母が、毎夜のように、夜の森に行ってはいけないと言う。それはきっと危険だからだ。僕の知らない怖い生き物が蠢いて、人間を食べてしまうのかも知れない。いつも優しい祖母は、その言葉を発する時だけ険しい顔になる。
 母を止めなくては。だって夜の森は危険なんだから。
 玄関を出ると、もう母の姿は木々の間に見えかくれするだけだった。踏み締められて出来た道を辿る。「お母さん」と呼ぼうとしたが、何故か声が出なかった。
 後ろめたかったのかも知れない。祖母が起きて、僕が森へ行こうとしてると知ったら、きっとすごく怒るだろう。母を止めるだけだ。ほんの少しだけだ。だから大丈夫。
 僕は森の中を縫う白い影を見落とさないように、駆け足になった。

 誰も使っていない筈の狩猟小屋の扉が開いていた。錆びた番がきいきいと不快な音を立てている。
 ゴッ。
 鈍い音が中から響いてくる。そしてよく耳を済ますと、何か濡れた音が聞こえてくる。
 なんだろう?
 僕はそこにいるのが母だと、疑いもせずに扉を覗く。
 そこにいるのは、確かに母だった。
 古い斧を握り、蛇に打ち付けている。あの鈍い音は、蛇の骨が分断される音だ。濡れた音は、その切り口を啜る母の口元から溢れていた。
 僕は扉に片方の手をかけたまま、悲鳴もあげられずにいた。
 僕の存在に気付き、僕を振り仰いだ母の顔は、蛇の血で真っ赤だった。
 片手に掴んでいた蛇の尾を捨て、立ち上がる。腰を屈めたまま、獣の様な低い唸り声を出して僕を見つめている。斧を掴んでいる右手に、力を込めているのがわかる。
 次の瞬間。
 その斧は僕の腹に納まっていた。長い間誰も手入れせずに放置されていた斧は、錆びて先がぎざぎざで、切れ味は最悪だった。母は、食い込んだ斧を力任せに更に押し込む。
 今度は僕はちゃんと叫んでいたと思う。でも、自分の耳には届かない。だけど母は不快そうに耳を塞いだ後、胸元から出した小さなナイフで、僕の喉を刺した。
 気道に血液が溢れて、声は出なくなった。
 僕は、自分がいつ絶命したのかわからない。
 いつのまにか、僕の身体を掻き抱く母を空中から見つめていた。
 母は何か言っている。言葉は涙と絶叫に遮られてよくわからない。でも唇の形で、僕の名を呼んでいるのがわかる。
 ああ、母は正気を取り戻したんだ。
 細くきりきりと痛いような声で、母が哭く。

 朽ちた僕の頭蓋を抱いて、母が哭いている。幾晩続いたかわからない、母の慟哭。
 特に、こんな風のない夜は、殊更悲しげな声をあげる。高く低く、木の葉の間を滑るうち、旋律を持っているように聞こえる。まるで、歌っているみたいに。
 昔、母が言った。
 この森には、嘆きの精霊が住んでいると。

おわり

2001/5