Tear drops



本来曲るべきではない方向に曲がってしまった彼の足。右腕はかろうじて繋がってはいたが、やはり、出鱈目な方向へ捩じ曲げられていた。左腕に至っては、肩口からなくなっていた。
よく、切断してしまった足が痒いと訴える人がいると聞いた。不思議なものだ。彼が生きていたなら、そんな感覚が本当にあるのか聞いてみたい。
生きていたなら。

シスターはある日、車に跳ねられた仔犬を抱いていた俺に言った。
「可哀想ね」
俺は「可哀想って何?」と彼女に聞いた事を覚えている。そう言った俺に、仔犬に向けていた視線を俺に向けて困ったように、曖昧に微笑んだ。
その表情が哀れみだと言う事は、後から知った。
俺はどうやら、感情を持っていないらしく、顔の神経がいかれてるので表情もなかった。
その事についても、何も思うところはなかった。何しろ、感情がないらしいから。ただ、死は悲しいものなのだと、記号として覚えた。
大人になると、覚えなければいけない記号は増え、複雑になっていった。パズルのように、その時必要な気持ちを探しては繕った。精神的は苦痛を感じる事はなかったが、疲労は頭痛となって俺を苛んだ。

彼の身体は他の死体の上に無造作に折り重なっていた。
もう、彼と言葉を交わす事も、触れる事もできない。これはきっと「悲しい事」なのだ。
悲しい悲しい悲しい。
呪文のように頭の中で繰り返してみたが、それがどんな感覚なのか、よくわからなかった。
幼い頃、母が俺を罵倒した事を思い出す。父の遺体を見て、俺が笑ったと言うのだ。笑った覚えはない。笑顔を作る事はできないから。
父の遺体を抱いて泣いていた母に、何か告げたかった。開きかけた唇が、笑っているように見えたのだろう。
その翌日、母は俺を置いて消えてしまった。
それもきっと悲しい事なのだ。俺は、自分の感情を持てない代わりに、周囲の人間の顔を見てそれを判断した。
だけど今、俺の他には死体しかいない。

一緒に教会で暮らしていた頃、彼は動かない俺の顔を、自分の指でぐにぐにと曲げて表情を作って鏡で見せてくれた。
眉を上げたりさげたり、口の端をひっぱったりした。
俺が何の反応を示さなくても、満足気に俺を見ていた。
何が気に入ったのか、彼はずっと俺と行動を共にした。俺がそれを拒む理由もなかった。
この戦場に来たのもそうだ。

彼の身体はもう硬直してしまって、触ってみるとかちかちだった。このままでは、彼は軍に回収されて、脳だけ取り出されるのだろう。彼は優秀な兵士だったから、色々データを取ったり解析されたりするのだろう。もしかしたら、脳を元に彼を複製するかもしれない。
胸がちりちりと痛んだ。これは怒りかもしれない。痛くて痛くて、苦しかった。
俺は背負っていたライフルを構え、彼の額に狙いを定めた。彼の脳は彼のものではないか?たとえ、死んでも。
下敷きになっている死体ごと、彼の頭は吹き飛んだ。
それでも、細胞を採取して彼を利用するかもしれない。しかし、俺にはこれ以上、彼の身体を処分する術がなかった。
ライフルは弾切れだし、パイナップルは使い果たしていた。
どうにもできない。
また、胸が痛んだ。
このまま、千切れてしまうかと思うくらい、胸が痛んだ。
こんな時、泣くべきなのだろうか?
涙を流せば、少しは楽になるのだろうか?
しかし、俺には涙を流す方法がわからなかった。
ただ、胸の痛みだけが増していった。俺は、懐に忍ばせていた小さなナイフを、両目に突き立ててみた。
火の様な痛みが両目を襲った。でも、神経がそちらに取られる分、胸の痛みは幾らかましになった。
血は、俺の両頬を濡らした。止め処なく、流れていった。涙を流す感覚はこんなものなのかもしれない。
目を潰してしまったのでは、戦場ではすぐに命を落としてしまうだろう。
彼の元にいけるかと思うと、さっきまであれ程苦しかった胸の痛みは引いていった。
頬を拭うと、温い液体の感触がした。
それは血液ではなく、涙だと想像してみた。温かく、透明な涙。

おわり

2001/1