天上の詩人 1



街の中央部にはもう誰も掃除をしなくなって緑の苔の蔓延る、新しい水を噴き上げることのない噴水があった。
哀れなその噴水の濁った水の底には、酸化し錆に腐食され始めたコインがたくさん落ちていた。
僕は退屈しのぎに噴水の縁に腰をかけて水底を見ていた。何か願いをかけて投げ込まれたであろうコインも、薄汚れた噴水もとても幸福をもらたしてくれるようには見えなかった。
この場所が、なんの御利益があるのかも僕は知らなかった。しかし、一昔前はそれなりに支持されていたのだろう。それをこのコインの数が物語っていた。
水の底で何か光った。錆びるのを免れたコインかと思ったが、それは金属片よりももっと透明な光を放っていた。濁った水に目を凝らして見ると、それは小さな平たい青い石だった。
きらりきらりと、不潔な水底で清い光を放っていた。水の底はきっとぬるぬるして気持ちが悪いだろう。
手を入れるにはとても勇気がいったが、僕はどうしてもその石が欲しくて目一杯腕まくりをして手を突っ込んだ。
汚れてぬるぬるする水底のタイルの上で、その石だけすべすべと心地よい手触りだった。
拾い上げ、暮れかけた太陽の光に翳した。石は深い深い夜の色の青になったり、晴れた日の水たまりみたいに柔らかな淡い青になったりした。
それは光の当たり方のせいなのか、元々蛋白石のように多色の光彩を持っているのか、僕にはわからなかった。

夕日が時計台の方向に沈み切ったころ、やっと彼は現れた。待ちくたびれていたけれど、それでも僕は思わず笑顔になってしまってそれが悔しかった。
悪びれもせずに僕に近付いてくる、片手を上げて僕を手招きする。ついつい綻んでしまう顔を隠したくて、僕は彼の胸に飛び込んだ。
彼のシャツには黒っぽく変色しかけた血の後と、火薬の臭いがした。ちょっと息苦しくて、僕は鼻で息をするのをやめて口をぱくぱくさせていた。
そんな僕の子供っぽい仕種を嬉しそうに見下ろしながら、彼は僕の口の中に飴玉を放り込んだ。大きくてまわりに砂糖の粒がいっぱい付いていて、舐め終わると口の中が真っ赤になる程着色された飴玉。
真っ赤になった口の中を見せる度に「血まみれになったみたいだ」と、嬉しそうに僕の舌を触った。
彼は人を殺してきた日は、僕に必ず赤い飴玉を食べさせる。彼は何も言わないけれど、それは二人が一緒にいる為に必要なことだと僕は勝手に思っている。
そう、彼がしていることはすべて、僕と一緒にいる為なのだ。
彼がそれをあきらめてしまった時、僕の世界も終わってしまうのだ。僕は彼の中の危うい楽園の中で生かされている無力な子供だった。
いつか、僕がもう少し大きくなったら彼と僕は愛し会うことになるかも知れないけれど、そんなことでこの世界が強固になる訳でもなんでもなかった。
彼は僕を抱きしめて、僕の頬にかさかさと乾いた唇を付けた。
リップクリームを塗ってあげようと、ポケットを探っていたら、さっき噴水で拾った青い石が出てきた。
月明かりではあのきれいだった青色はわからなかった。
とってもきれいな色だったんだよ、と彼に言うと、彼はライターを付けてくれた。
ライターの火に翳すと先程見えたどの色よりも真っ青に見えて、小さく小さく何か彫ってあるのが見えた。良く見ると石は傷だらけで、彫文字も欠けていて読み取る事はできなかった。
僕は彼に何もしてあげる事がないのでこの石をあげる、と言って彼の大きな掌に石を置いた。
「そんなことはないよ」と彼は目を細めて笑い、石を握ったまま僕のシャツの中に手を入れて、僕のおなかや胸を撫でた。
そして今度は頬ではなく僕の唇にキスをした。
彼の手は温かくて、でも握られた石の感触は冷たくて、おかしな感触だったけれど、ずっとこうしているのも悪くないなと、僕は思った。