祖父の書斎には雉の剥製があった。首のあたりの羽根が緑色でてらてら光っていて、尾は長くぴんと伸びていた。目はガラス製のものをはめてあっが、出来がよくないのかあまりきれいな色ではなく、濁ってどろりと流れ出しそうだった。それは「剥製は死体」だと言う事を再認識させるかのように、薄い明かりを力なく反射していた。
他の家では剥製と言うのはもっと、家の中でも目立つ所に置いてあるように思う。玄関先とか応接間だとか、客に誇示できる場所に。書斎と言う個人的な空間には相応しくない気がした。祖父はその雉に特別な思い入れがあったのだろうか?いや、そうは思えない。あの瞳。内蔵を取り出され詰め物をされて恨めし気に濁った目をしたあの鳥。思い入れがあるのならもっと活き活きとした仕上がりを求めただろうし、もっと人の目につく場所に置くだろう。

道楽で始めた狩から帰る途中、美しい娘を手に入れた。身元のわからないその娘が拒むのもかまわず、無理矢理連れ帰った。
それなりの家柄の年頃の娘は皆、舶来の洋服に嬉々として袖を通し始めていた時代だ。その娘は柴色(ふしいろ)の着物に似紅のへこ帯を幼女のように絞めていた。その簡素な着物がかえって彼女の美貌を引き立てていた。小柄ですらりと伸びた手足は少年のようだったが、それに妙な色香を感じてしまう。
不思議な少女だった。ほとんどものを言わなかった。言葉がわからない、といった様子ではなくこちらの言っている事は理解していた。名を問うと悲しそうに眉をひそめてうなだれるだけだった。
隙あらば逃げ出そうとするので彼女には監視の為に侍女を二人つけた。
彼女に新しい着物を与え、着替えさせるように命じたが二人の侍女は程なく根をあげた。普段は大人しくこちらの言葉に従っているが、着ている物を剥ごうとすると女二人の力ではとても押さえる事が出来ない程暴れた。
私の茵に入れた時も同様だった。着物の裾に差し入れた私の手には、爪の通った紅い跡がいくつもできた。髪を乱し奇声をあげる様は狂女のようで、それを押さえ付ける事に私は今までにない興奮を覚えていた。
漆黒の闇に細い筆で撫でたような弱々しい月が出ている夜だった。抵抗する事に疲れ、涙を流したままの彼女はぐったりと私の傍らに身を横たえていた。
屋敷の庭の木々の葉の揺れる音がする。そんなに風が強かったかと訝しみ窓の際に立った。
雉だ。
鮮やかな羽根を持つ雄雉だ。頭部の毛を逆立てて澄んだ金色の瞳をぎらぎらと輝かせていた。身体中に怒りが漲っているといった風だった。
何度も何度も窓硝子に体当たりし、その度にふらふらと体勢を崩し落ちていきそうになった。やがて硝子にひびが入り、雉の胸のあたりに細かな破片が刺さった。血が滲んで雉の羽根と割れた窓硝子を汚した。
驚いたのは少女が身を起し、窓硝子に向かってあられもない姿で駆け寄った事だ。
「ああ…」
言葉にはならない少女のうめき声が漏れた。私が抵抗する彼女を打ち据えた時に漏らした悲鳴とは、似ても似つかない甘い響きの声だった。
驚愕が怒りに変わったのはそれがきっかけだった。
壁にかけてある猟銃を取り、雉を狙った。
銃を持った私の腕に取り縋り、何か喚く少女。
それを乱暴にふりほどき、私は雉に銃口を向けた。

祖父の病死に相次ぎ、祖母が急逝した。訃報を聞き、慌てて帰省したが祖母の最期には間に合わなかった。
祖母が嫁いだばかりの時の写真を見せてもらった事がある。モノクロの写真であったが、目にした途端、色彩が溢れ出そうだった。美しい人だった。
私が覚えている祖母は優しいふつうのおばあちゃんだった。いつも空ばかりながめていたが、私が呼ぶと優しく微笑んで手を繋いでくれた。若い頃は言葉が話せなかったと聞いたが、とてもそんなふうには見えなかった。
しかし写真の中の祖母は、確かにそんな感じだった。常人が持てない不思議な透明感を持っていた。
祖父の書斎は死後も整理しないままだ。本も文机もほこりをかぶっている。雉の剥製の頭もうっすらと白くなっていた。
払ってやろうとした途端。
今まで濁っていた瞳が急に金色に輝いた。夕日を反射しているせいではない。その瞳はぎらりと私をみたのだ。触れた頭部からは鳥類の高い体温が感じられた。
雉は何十年かぶりに翼を広げ、開け放たれた窓に向けて飛んだ。
肌寒い夕暮れの空気を切るように鳥は空に向かい、みるみる小さくなった。
部屋には彼の残した羽根が、いくつか散っていた。


おわり

2000/6