Katahkanes



男は少年に名前がない事をあまり気にしなかった。
彼は少年の事を、単に『吸血鬼』と呼んでみたり『カタカネス』と呼んでみたりした。カタカネスと言うのは、彼の故郷の島で吸血鬼を意味する言葉らしい。彼がどうして郷里を捨てて来たのかは聞かされていなかった。
 彼は町で一番安いアパートメントに住み、家賃とパン、生活に最低限必要な賃金を稼ぐ為に、一日五時間程、本屋のレジに立っていた。
男と少年は、月のない晩、子供が少なくなって閉鎖された小学校の門扉の影で知り合った。少年はちょうど、十歳くらいの少女の血を吸っている所だった。男はそれにあまり驚かず、少女の遺体を埋めるのを手伝ってくれた。
彼等の間に、名前はあまり重要な意味を持たなかった。名前を呼ぶ必要もあまりなかった。睦言と同時に、相手を引き寄せればそれでいいのだ。

※※※

彼は少年が昼間眠っている時は、アルバイトに出かけるか、ずっと本を読んでいた。変色した皮張りに箔押しの古い本から、映画の原作のペーパーバックスまで様々だった。少年が起き出すと、拾って来たソファかベッドで、何をするでもなく一緒に寝そべっていた。
青白い顔をして、濁った青い目をして、黒い服を好んだ。彼の方がよっぽど吸血鬼らしく見える。
少年はあまり吸血鬼らしい容姿ではない。十代半ば程に見える体型は、もうずっと長い間変わらなかった。年齢を経る事がない点を知らなければ、彼はごく普通の思春期の少年に見えた。
金色の髪に金色の瞳は、夜の眷属と言うよりは、太陽の恩恵を浴びて生まれた様だ。少女の様に柔らかい曲線の頬は、赤ん坊の様に時折、薔薇色に染まる。
それは大抵、男が少年の身体に触れようとした時であったり、容姿について賛美の言葉を浴びせた時だった。
男は薔薇色の頬に唇を寄せ、少年の唇を指で捲り上げて尖った犬歯を眺める。男が少年に触れるのは、いつもそこまでだった。
少年が気の毒な程赤面するからだ。

※※※

彼の住むアパートメントを指して、子供達は『幽霊が出る!』と叫んで走っていった。実際には、出るのは吸血鬼なのだが。
空家の多いこの建物は、不吉なにおいがするのだろう。数少ない住人は、皆どこかしら社会に組みしないタイプだった。
子供はそういう異端に敏感で、親が立ち入ってはいけないと言う場所が大好きだ。

※※※

彼が子供の腕を持ち帰ったのは少年と知り合って一週間が経った頃だった。
おみやげ、とにやにや笑いながら、黒いビニール袋を少年の膝元に投げる。袋は小さいのに、いやに重く感じる。
中身を見て、少年は悲鳴をあげる。小さな腕が、まだ血を滴らせながら出て来た。爪には、拙いマニキュアの跡がある。母親の物を勝手に拝借して塗ったのだろう。
「何を驚いているんだ? お腹が空いているんだろう? 吸血鬼」
男はビニール袋に指を突っ込み、ビニール袋に溜っている血を掻き回し、付着した血を少年の頬に擦り付けた。
「お前の為に切って来た」
まるで花でも摘んで来たかの様な、気軽な口調で言う。
「何を泣いている? 殺すよりましだろう…お前、飢えているんだろう?」
少年は、頬に付いた血を拭って舐めた。血はとうに冷えていて、ビニールに溜った血も、小さな腕から垂れる血も、一向に啜りたいという欲望は湧かなかった。
「ああ、悪かった。生き餌でないとダメなんだな?」
まるで少年が蜥蜴か何かの様に言う。獲物に食欲を示さないのを知ると、残念そうに少女の腕を摘まみ上げ、キッチンの生ゴミ用のバケツに捨てた。
「俺の血を飲む? 男だと嫌?」
くたりと床に座り込んでいる少年に、男は献血でもするように腕を差し出す。
「僕が…血を飲むと死んでしまう」
「吸血鬼になれるんじゃないのか?」
「それは、人間の考えたお伽話だよ。最初に会った晩のあの子も、死んじゃったでしょ」
「そうか…。お前は生きている人間に牙を立てて命を奪わないと満たされないと言う訳だ。腕や死体を持ち帰っても意味がない」
その言葉に、少年はしゃくりを上げて泣き出す。
「ああ、困ったな。責めている訳じゃない。俺はお前が飢えていたら可哀想だと思っただけだ」
男は大きな口を釣り上げて、戯けた顔を作る。何の感慨もなく少女の腕を持ち帰る男の行為は恐ろしかった。だが、それは少年の為にした事だと言う。
男と少しの時間暮して、忘れていた。自分が浅ましく恐ろしい魔物だと言う事。ほんの一週間前、少女の血で腹を膨らませた事。
頬に付いた血は、涙と混じって薄まり、白いシャツにピンク色の染みを作る。
男は『悪かった』と言って少年を抱き締める。痩せた胸に頬を押し付けると、骨の感触がした。

※※※

何かが間違っていると少年は思っていたが、具体的にそれを認識する事が出来なかった。今日も子供達は『幽霊が出る!』と窓の下を走っていく。
ぴったりと閉めた雨戸から、ほんの少しだけ差し込む太陽を浴び、少年は黴臭い毛布に潜り込んでいた。
確かに飢えている。
真っ昼間なのに薄暗い部屋の中、少年は男の帰りを待っていた。まだ、彼が帰ってくるには二時間程待たなければいけない。
男の残酷さが少し怖かったが、抱き締めてくれる腕を手放したくなかった。今までは平気だったのに、暗闇を彷徨って獲物を探す事が何だか恐ろしい事の様に思えた。獲物は大抵、少年の腕力でも捕らえられる、子供や女だった。それが卑劣な事だと、男に少女の腕を突き付けられた時に思い知らされた。
あれは、何かの教示のつもりだったのだろうか? それにしては刺激が強すぎる。
少年は飢えを誤摩化そうと、キッチンに立ち、蛇口を捻る。水が喉を通り胃に落ちると、少し空腹が誤摩化された気がするが、冷たい感覚が不快で、すぐに流しに吐き出してしまった。
足元には、あの日少女の腕が放り込まれたバケツがある。バケツの下には床下収納庫があり、少し蓋がずれていた。
それを直そうと、手をかけた時、ほんの少し好奇心にかられる。男は、食べ物に執着がないらしく、保存食を買い込む事などなさそうだった。
蓋を開けると、幾つか木箱が入っていた。上等なワインが入っていそうな箱。しかし、男は酒を飲まないのだ。良く見ると木箱は古く、恐らく酒屋かどこかの裏で拾って来た物だろう。
取り出すと、いやに軽かった。やはり、中身は酒ではない。
蓋を持ち上げると、スワトウ刺繍の白い、奇麗なハンカチに何か包まれていた。
そっと包みを解くと、中から出て来たのは骨だった。恐らく、人間の。
白骨化したそれは、本当に白々として、生命の執着は全て洗い流された様に見えた。もう一つの包みからは、五本分の指がきちんとならんだ手が出て来た。
箱の全てから、白骨が出て来た。淡いピンクのジョーゼットに包まれていたのは、頭部だった。

※※※

少年は骨を元通りに仕舞い、男の帰りを待った。男は、いつもアルバイトから帰る時刻を回っても戻って来なかった。
思考は上手く働かなかった。代わりに、映像がランダムに少年の脳の中を回る。
少女の腕。誰もいない小学校。男の笑顔。血。中庭。スコップ。少女。男の手。血。白骨。男の黒いコート。ビニール袋に溜った血。スワトウ刺繍。バケツ。

※※※

いつもの時間を一時間も遅れ、男が帰って来た。珍しく息を切らし、興奮している。
「おかえり…」
精一杯、平静を装って少年が言う。
「死体が出た」
「え?」
血走った目で、少年を見据える。興奮しているが、男の感情は読み取れなかった。
「お前が小学校で襲った女の子。目撃者がいた」
それを恐れているとか、追手に怯えていると言う訳でもなさそうだ。ただ、男は興奮していた。
「直に、俺は捕まるかも知れない。捕まる? 俺がか? 牢獄はどんなところだろう? 俺にはどんな罰が下されるのだろう?」
男はいくつか、残酷は刑を例に挙げた。それを聞いた少年の顔が青ざめている事に気付き、少し声のトーンを落とした。
「なあ、俺の血を飲まないか?」
男の顔は真剣だった。青く濁った目が、見開かれている。
「でも…」
「死んでしまう? それは今までたまたまそうだっただけかもしれないじゃないか? もしかしたら、俺も吸血鬼になれるかもしれない。そうだ。お伽話と言うのは、全く根も葉もない所からは生まれない」
「そんな微かな可能性なんか信じられない。僕は、あなたに死んで欲しくない」
「俺を好きか? 何故だ? 知り合ってまだ二ヶ月にもならない、キスもしてない、俺の過去も知らない」
「一緒に死体を埋めてくれた」
そうか、そうだな…と男は視線を落としきょろきょろとする。何か考えているみたいだ。
「俺はどの道、お前よりも先に死ぬ。捕まったら刑が決まるまでに舌を噛む」
「何言ってるの…」
「俺が捕まったら、多分脳の中を洗い攫い覗かれて、余罪も全部露見する。故郷の島に埋めて来た少女の死体も出るだろう」
故郷の島。今もまだ、カタカネスと言う吸血鬼の存在が信じられている島。
「なぁ、俺を吸血鬼にしてくれ。一緒にずっと生きよう。時々、柔らかそうな女の子を攫って来て、二人で半分こして血を吸おう」
嫌だ、声が掠れて上手く言葉にならなかったが、少年は男が掴んだ腕を振り解こうとする。
「今、お前が俺の血を吸ってくれるなら、たとえ俺が死んだとしても、お前の飢えは満たされる。刑に服したり自殺したりするより、俺にとっては意義のある事だ」
頼む、と言う男の手には段々力が篭る。掴まれた腕が痛い。多分鬱血しているだろう。
「吸血鬼になって一緒に暮そう。どこかに隠れて暮して、ほんの時々、人を襲うだけだ。きっと、交通事故で死ぬ確立の方が多いくらい、ほんの時々だ」
男は初めて、少年に唇を重ねて来た。すぐに口腔の中に互いの唾液が溢れ、唇の端を滴っていく。
生暖かくてとろりとした刺激に、血液が喉を通る感触を思い出す。体表面より少し熱を持っていて、たくさん栄養の詰まった赤い蜜。
少年の理性は本能に砕かれ、男の唇を噛む。甘い蜜が迸る。
それから先は、もう止まらなかった。男のシャツを破り、白く痩せた胸に爪を立て、首筋に噛み付いた。
ぷつりと音を立てて牙を迎え入れた皮膚から、競う様に血が溢れてくる。零れた血を舌で受け止め、流れ出るのを待てずに小さな傷口を啜る。
男の苦痛の喘ぎも、嗚咽も、耳に届かなかった。気が付くと、男の身体は支えていた筋肉が弛緩し、少年の腕では支えきれずに床に落ちた。

※※※

男の身体は冷えていくばかりで、ちっとも吸血鬼になる気配はなかった。腹を満たして座り込んだ少年は、傷口から弱々しく流れる血を、惚けた様に見ていた。血は少しずつ床に広がり、干涸び、赤黒い被膜を作っていく。
少年はふと、彼の名前さえ聞いていなかった事を思い出した。
墓標に名を刻んでやる事も出来ない。
そんな事など、彼の死を目の当たりにするまで考えもしなかった。
少年はただ、彼と共に生きたかっただけだったのだ。

おわり

2002/11